第五話:静かなる侵蝕(一)
第五話:静かなる侵蝕(一)
執筆:町田 由美
泥の道がようやく途絶え、足元に硬い礫(つぶて)の感触が戻ってきたとき、私たちは長江の支流へと辿り着いた。
水面は、鈍い銀色を湛えてゆったりと流れている。
かつて書物の中で読んだ、万物を育む大河。
けれど、目の前にあるそれは、逃亡者たちの無数の絶望を飲み込み、何事もなかったかのように押し流す、巨大な墓標のように見えた。
「叔父上、水です……」
私は均(きん)を地面に下ろし、這い寄るようにして水際に近づいた。
掌ですくった水は、驚くほど冷たい。
土埃と血の匂いにまみれた私の顔に、その冷たさが刺さる。
だが、叔父上は水を飲もうとはしなかった。
水辺に打ち捨てられた、小さな、朽ち果てた舟を見つめたまま、微動だにしない。
叔父上の瞳の奥にある光は、湿原で「法」を殺したあの日から、どこか遠い場所を彷徨っているようだった。
「亮……」
叔父上が、掠れた声で私を呼んだ。
「この川を渡れば、揚州。そしてその先には、私の旧友がいる。そこへ行けば、均を休ませてやれる」
叔父上の言葉は、自分自身に言い聞かせているようだった。
均は、私の膝の上で、荒い息を繰り返している。
その頬は赤く、吐き出す息は熱い。
私は均の額に手を当て、息を呑んだ。
(……熱い)
それは、単なる疲れではない。
泥の中で、瘴気を吸い、あるいは何らかの病をその小さな身体に宿してしまったのだ。
戦乱の後に必ずやってくる「疫(えき)」という名の、姿なき死神。
「叔父上、均が……均の身体が、燃えるようです」
私の声が震える。
叔父上が、慌てて均を抱き上げた。
均の身体は、折れた枝のように力なく叔父上の腕の中に沈む。
「ああ、神よ……」
叔父上の口から、祈りとも絶望ともつかぬ呻きが漏れた。
かつて叔父上が守ろうとした「徳」や「礼」は、剣で人を殺すことは許さなかった。
けれど今、私たちの前に立ちはだかっているのは、知略も、剣も、慈しみも、すべてを無意味にする「自然の猛威」だった。
周囲を見渡せば、川辺には同じように力尽き、横たわる難民たちが点在している。
彼らはもう、互いを奪い合おうとする気力さえない。
ただ、天を仰ぎ、自らの内側から蝕まれていく命を、静かに見送っているだけだった。
(理不尽だ……)
十三歳の私の指先が、怒りで白く染まる。
なぜ、志を持つ者が、これほどまでに脆く崩れなければならないのか。
なぜ、人を慈しむ心が、泥の中で踏みにじられ、最後には熱病に喰われなければならないのか。
「亮。この川を、何としても渡るぞ」
叔父上が、均を背負い直した。
その瞳に、再び鋭い光が戻る。
けれどそれは、かつての知性溢れる官吏の光ではない。
自らの命を薪(まき)として燃やし、最後の輝きを放とうとする、蝋燭の終わりのような光だった。
「渡し船を……探しに行きましょう。叔父上、私が先を見てきます」
私は、震える足に力を込め、立ち上がった。
長江の風が、私の頬を叩く。
その風は、自由の匂いなどしなかった。
ただ、死者の嘆きと、湿った水の匂い、そしてこれから始まるさらなる孤独を予感させる、冷たい風だった。
私は一歩、また一歩と、灰色の水面を横目に見ながら歩き出した。
背後で、叔父上の激しい咳払いが聞こえた。
その音が、霧の中に消えていくのを、私はただ、拳を握りしめて耐えていた。
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