第四話:断罪の泥濘(一)
第四話:断罪の泥濘(一)
執筆:町田 由美
湿原の夜が明けても、そこに救いはなかった。
立ち込める霧は、私たちの視界を塞ぐだけではなく、服の繊維にまで染み込み、体温を容赦なく奪っていく。
「叔父上……均の足が、もう……」
私の声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
背負っている均の身体は、火のように熱い。
逃避行の緊張と、夜通し泥に浸かっていた冷えが、幼い弟の命を蝕んでいた。
叔父上は足を止め、振り返った。
その顔は、たった一晩で十歳も老いたかのようだった。
頬はこけ、眼光だけが異常に鋭く、周囲の霧を切り裂いている。
叔父上の視線は、均ではなく、私たちの背後の闇に向けられていた。
そこには、昨夜から私たちを執拗に追っている「影」があった。
軍勢ではない。
同じように住処を追われ、理性を失った、三、四人の男たちだ。
彼らは武器こそ持たないが、手に石や折れた木を握り、私たちが力尽きるのを待っている。
叔父上の持つ、わずかな乾飯と、均をくるんでいる厚手の布を奪うために。
「亮、均をそこに下ろせ」
叔父上の声は、低く、湿っていた。
「叔父上……?」
「下ろせと言っている。……そして、耳を塞いでいろ」
叔父上は腰に差した剣を抜いた。
それは、名家である諸葛家が代々伝えてきた、礼節を象徴する美しい装飾のついた剣だった。
だが今、その剣が映しているのは、秩序を説く文官の姿ではない。
叔父上は、ゆっくりと、男たちが潜む霧の奥へと歩みを進めた。
「いいか。私たちは、南へ行く。……これ以上、近づく者は、我が命に代えてもこの世から消し去る。……私は、もはや人間ではない。ただの、飢えた、諸葛の家の犬だ」
叔父上の言葉に、闇の中から「ふざけるな」という嘲笑が聞こえた。
「お前らだけ、飯を持っていやがる。そんなもの、この乱世じゃ罪だ。分けろよ、諸葛の旦那」
その直後、霧の奥で何かがぶつかり合う鈍い音がした。
肉を断つ音ではない。
重い泥が跳ね、必死に命を奪い合おうとする、獣たちの取っ組み合いのような音。
私は、均を抱きしめ、叔父上の背中を見つめ続けた。
耳を塞げと言われたが、私にはできなかった。
これが、この世界の本当の姿なのだ。
言葉が通じず、慈しみが届かず、ただ命の重さを量り合う天秤。
やがて、叔父上が戻ってきた。
剣は鞘に収められていたが、叔父上の手は、自身の血か、それとも他人の血か分からない赤黒い汚れに塗れていた。
叔父上の瞳からは、もう、かつての温かな光は消えていた。
「亮。……今の私は、人を殺したのではない」
叔父上は、私の目を見ずに呟いた。
「私は、私の中にある『法』を殺したのだ」
その言葉の重みに、私は呼吸を忘れた。
家族を救うために、叔父上は自らが最も大切にしていた「人間としての誇り」を断罪した。
私は、震える均の身体を抱きしめながら、足元の泥を見た。
泥の中に、叔父上が落としたであろう、美しい装飾のついた剣の柄の飾りが落ちている。
それは、私たちが「昨日までの世界」と決別した証のように、冷たく輝いていた。
(叔父上……)
心の中で叫んだが、言葉にはならなかった。
私の内側に、これまでとは違う、重く冷たい熱が宿り始めた。
叔父上が殺した「法」。
それを、私が拾い上げ、もう一度鍛え直さなければならない。
人を獣に変えさせないための、誰もが納得せざるを得ない、冷徹でいて揺るぎない「真の理」を。
「……行きましょう、叔父上。南へ」
私は、初めて自分から叔父上の手を取った。
叔父上の手は、氷のように冷たかったが、その震えは、もう止まっていた。
霧の向こう、遠くで朝陽が昇ろうとしていた。
けれどそれは、世界を照らす光ではなく、私たちの前に続く、果てしない泥の道を浮かび上がらせるためだけの、残酷な灯りだった。
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