第三話:見えない捕食者
第三話:見えない捕食者
執筆:町田 由美
叔父上の背中は、昨日よりもさらに一回り小さくなったように見えた。
私たちは、ただ南へと歩いている。
行く先に何があるのか、そこに安らぎがあるのかさえ、誰も確かなことは口にしない。
この逃避行において、私たちを追い詰めている「敵」には、姿がなかった。
それは軍旗を掲げて襲ってくる兵士でもなければ、鋭い刃を突きつけてくる略奪者でもない。
叔父上の敵。それは、「信じられなくなる」という病だった。
街道の脇に、一人の男が座り込んでいた。
喉が焼けつくような渇きを覚えているのは、私たちも同じだ。
叔父上の腰には、わずかな水が入った革袋がある。
男がこちらを見た。その瞳に宿っているのは、助けを求める哀願ではなく、隙あらばその袋を奪い取ろうとする、剥き出しの飢えだった。
叔父上は、均(きん)の肩を抱き寄せ、無言のまま歩を早めた。
かつて、叔父上は私に「礼」を説いた。
困っている者がいれば手を差し伸べ、分かち合うことこそが人の道だと。
けれど今、叔父上はその自らの教えを、自らの足で踏みにじるようにして進まなければならない。
「亮、見るな」
叔父上の声は、ひび割れた大地のように乾いていた。
「情けをかければ、私たちはここで終わる。今の私たちにとって、自分たち以外の人間はすべて、私たちの命を削り取る『敵』だと思え」
その言葉を口にしたとき、叔父上の横顔に走った深い苦悶を、私は見逃さなかった。
叔父上を殺そうとしているのは、どこかの軍勢ではない。
「人を信じる心」を捨てなければ生き残れないという、この残酷な世界の理(ことわり)そのものだった。
叔父上は、かつて多くの書物を愛し、知己と酒を酌み交わし、理想の治世を夢見た文官だった。
その高潔な精神が、一歩歩くごとに、泥に塗(まみ)れ、削り取られていく。
守るべき家族のために、彼は自らの魂を切り売りして、生き長らえるための「冷酷」を買い取っているのだ。
(叔父上の敵は、叔父上の中にいる……)
十三歳の私は、叔父上の震える指先を見つめながら、その正体に気づいてしまった。
優しくあろうとする自分と、生き延びようとする獣のような自分が、叔父上の内側で血を流しながら戦っている。
不意に、均が足をもつれさせて倒れ込んだ。
「兄様……もう、歩けない……」
均の瞳から、一粒の涙が零れ落ち、土に吸い込まれた。
周囲を歩く他の難民たちが、一斉に足を止めた。
彼らの視線が、獲物を見つけた鷹のように、私たちの荷物に集中する。
叔父上が、一歩前に出た。
その手には、震える抜き身の剣があった。
「来るな……! 近寄る者は、誰であろうと斬る!」
叫ぶ叔父上の顔は、もはや知性溢れる私の愛した叔父上のものではなかった。
それは、ただの追い詰められた、哀れな生き物の形相だった。
私は、倒れた均を抱きしめながら、天を仰いだ。
雲一つない青空が、私たちの醜さを嘲笑うように広がっている。
(ああ……。世界が壊れるというのは、家が焼けることではないのだ)
人が、人を人として見られなくなること。
愛する者を守るために、他人の命を、心を、踏みにじらなければならなくなること。
この「道徳の死」こそが、真の敵なのだ。
私は、叔父上の震える背中をじっと見つめ続けた。
いつか。
いつか、叔父上がこの剣を置き、再び穏やかな心で書物を開ける日を、私が作らなければならない。
そのためには、私は叔父上よりも、誰よりも強く、誰よりも冷徹な「理」の体現者にならなければならない。
泥だらけの私の手の中で、叔父上から譲り受けた筆が、折れそうなほど強く握りしめられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます