第二回:朱に染まる琅邪(二)
第二回:朱に染まる琅邪(二)
執筆:町田 由美
肺が焼けるようだった。
吸い込む空気は、もはや酸素ではなく、他人の家の柱であったはずの灰と、絶叫の残滓ばかりで満たされていた。
私の足元で、乾いた泥がひび割れ、逃げ惑う人々の血を吸って黒ずんでいる。
「亮、均、絶対に下を見るな。足首を掴まれても、止まるな」
叔父、諸葛玄の声は、もはや人間の言葉というよりは、死地から這い出そうとする獣の唸り声に近かった。
叔父の衣の裾は、私たちが逃げてきた距離を物語るように、無惨に引き裂かれ、泥と汗で重く垂れ下がっている。
叔父は、時折振り返り、背後の「火」との距離を測っていた。
その瞳に映っているのは、もはや軍勢ではない。それは文明を喰らい尽くす、巨大な口を開けた虚無だった。
「痛い……兄上、足が、痛いよ……」
均の小さな声が、私の耳元で途切れ途切れに響く。
均の履物は、とうの昔に鼻緒が切れ、裸足のまま荒れた土の上を走っていた。
私は均の手首を、青白い筋が浮き出るほど強く、そして、決して離さぬよう祈りを込めて握り直した。
私の指先には、弟の細い脈動が伝わってくる。
ドク、ドク、ドク。
この小さな鼓動こそが、今、私がこの地獄で守らねばならないすべてだった。
不意に、私たちのすぐ横を走っていた一人の女が、縺れるようにして倒れた。
女の背負っていた籠から、赤子の泣き声が漏れる。
「ああ、ああ……!」
女は泥を掻きむしり、立ち上がろうとした。
だが、その背後から、大気を切り裂くような音が迫っていた。
ヒュン、という、軽やかでいて、決定的な「死」の風切り音。
次の瞬間、女の背中に一本の矢が深々と突き刺さった。
時間は、残酷なほど緩やかに引き延ばされた。
女の身体が再び泥に沈み、赤子の声が泥に塞がれる。
私は、その光景を、瞬きすら忘れて凝視していた。
(助けなければ)
脳の一端がそう叫んだ。
しかし、私の足は、叔父の「止まるな」という命令を忠実に守り、無情にもその女の横を通り過ぎていった。
罪悪感などという贅沢な感情は、まだ生まれる暇もなかった。
ただ、胃の奥からせり上がってくる熱い塊を、奥歯を噛み締めて飲み下した。
これが、曹操という男がこの大地に刻み込んでいる「法」なのだ。
逆らう者には死を、従う者にも死を、逃げる者にも死を。
叔父が、不意に私の視界を遮るように立ち塞がった。
「亮、見るなと言っただろう。前を見ろ。道を探せ。お前が見るべきは、死体ではなく、私たちが生き残るための『隙間』だ」
叔父の大きな手が、私の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
その掌の熱さが、私の凍りつきそうだった心に、わずかな温度を取り戻させた。
私たちは、村を抜けて、荒れ果てた野原に出た。
遮るもののない平地は、騎兵にとっての最良の狩り場だ。
遠くで、再び馬蹄の音が鳴り響く。
一拍、二拍。
大地が振動し、逃亡者の列に新たなパニックが走る。
「水辺だ! 水辺へ向かえ!」
誰かが叫んだ。
だが、その声もまた、次の瞬間に上がった絶叫にかき消されていった。
私は、均を抱き上げるようにして走った。
自分の足の感覚はもうなかった。
ただ、この小さな命を、あの冷たい「死の風切り音」から遠ざけることだけが、私の存在のすべてになっていた。
叔父の背中が、また遠くなる。
私は、必死でその背中を追った。
(死なせない。絶対に、均も、叔父上も、私も)
その時、少年の私の胸の奥で、何かが静かに、けれど決定的に壊れた。
それは、大人が子供に語る「世界は正しい」という幻想だった。
代わりに入ってきたのは、冷たく、澄み渡った、研ぎ澄まされた刃のような殺意と知恵。
「叔父上、林です。あそこの竹林の中なら、馬は入れません」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど、感情の抜け落ちた、澄んだ響きを持っていた。
叔父が、驚いたように私を見た。
その瞳に、初めて私を「一人の男」として認めたような、かすかな光が宿ったのを、私は見逃さなかった。
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