第一回:朱に染まる琅邪(一)

​第一回:朱に染まる琅邪(一)


​執筆:町田 由美


​ その時、私の耳が捉えていたのは、風の音でも、鳥のさえずりでもなかった。

 乾いた地面を叩く、無数の足音。

 重い鎧が擦れ合う、鈍く、不快な金属音。

 そして、それらをすべて飲み込むように背後から迫りくる、生き物のような「火」の咆哮だった。

​ 「亮、走るな。体力を温存しろ。だが、足は止めるな」

 叔父、諸葛玄の声は、ひび割れた大地のように掠れていた。

 私の小さな掌は、五歳年下の弟・均の、今にも壊れそうなほど細い手首を握りしめていた。

 均の呼吸は、まるで傷ついた小鳥のように浅く、速い。

 私たちの故郷、琅邪(ろうや)の陽都。

 父が愛し、私たちが育ったあの静かな屋敷は、もう、思い出の中にしかない灰の塊へと姿を変えようとしていた。

​ 振り返ってはならないと、心の中で幾千回も繰り返す。

 けれど、頬を撫でる空気があまりに熱く、焦げ臭い。

 肉を焼く匂いか、あるいは古びた家財を包む紙が焼ける匂いか。

 その区別さえつかないほど、鼻腔は死の気配に支配されていた。

 

 「叔父上、父上は……父上はどうなるのですか」

 均が震える声で尋ねる。

 叔父は答えなかった。

 ただ、その険しい背中で、語り続けていた。

 答えないことが、今この瞬間に彼ができる唯一の慈悲なのだということを、私は残酷なほど冷静に理解してしまった。

 父、諸葛珪(しょかつけい)は、もうここにはいない。

 この逃亡の列のどこにも、父の穏やかな微笑みを探す場所はなかった。

​ 私たちの前を行くのは、どこから湧いて出たのかもわからぬ、膨大な数の民の群れだ。

 ボロ布のような衣を纏い、空虚な瞳で、ただ南へ、南へと流れていく。

 道端には、力尽きた老人が、まるで見捨てられた荷物のように横たわっている。

 それを見て、私は瞬きを一つした。

 涙は出なかった。

 ただ、この世界から「秩序」という言葉が、一滴の滴も残さず枯れ果ててしまったのだと、冷徹な感覚だけが全身を駆け抜けた。

​ 不意に、背後でひときわ大きな絶叫が上がった。

 曹操の騎兵たちが、逃げ遅れた最後尾を捉えたのだ。

 大地を揺らす馬蹄の音。

 それは、文明を蹂躙する野獣の足音だった。

 叔父の大きな手が、私の肩を強く掴んだ。

 「走れ、亮! 均を離すな! 泥を這ってでも、生き延びるんだ!」

 

 初めて見る叔父の、剥き出しの形相。

 知性溢れる官吏だった男が、一頭の獣となって私たちを守ろうとしていた。

 私は、喉の奥が焼けるような痛みを感じながら、ただ土を蹴った。

 視界が朱に染まる。

 それは、夕焼けの赤ではない。

 命を燃やし、家々を焼き、すべてを無に帰す「戦」という名の、地獄の色だった。

​ 私たちは、一歩踏み出すごとに、それまでの自分を捨てていった。

 文字を知る喜び、詩を詠む愉しみ、家族で囲んだ静かな食卓。

 それらすべてを犠牲にしなければ、この焦土を潜り抜けることはできない。

 

 私の指に食い込む均の力。

 叔父の荒い吐息。

 それだけが、私がこの世に繋ぎ止められている唯一の証だった。

 

 (ああ……。理(ことわり)など、ここにはないのだ)

 

 逃げる私の心の中に、一粒の、黒い種が落ちた。

 それは、絶望から生まれた知恵の種だった。

 力がなければ、愛する者一人守れない。

 理不尽を叩き潰すための「理」を持たなければ、人間はただ、時代という名の炎に焼かれるだけの落ち葉に過ぎない。

 

 私は、逃げながら誓った。

 いつか、この風向きを変えてみせると。

 私たちが今、背中から受けているこの地獄の熱風を、逆に敵を焼き尽くす風へと変えてみせると。

 

 それが、のちに「臥龍」と呼ばれる少年が、初めて抱いた静かな、あまりにも静かな殺意であった。

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