第3話・ほろ苦バレンタイン



「――りっちゃん」


 馴染みの声に呼ばれて、ビクリと肩が跳ねる。自転車のハンドルに手をかけたまま、六花りっかは背後を軽く睨んだ。


 学ランの制服にダウンジャケットを着た短髪の少年は、あっと声を上げて、眼鏡の奥の瞳を照れくさそうに窄める。


「ごめん、小峰こみねさん」


「……別に。誰も聞いてないだろうし」


「よかった。なあ、一緒に帰ろうよ」


「……うん、いいよ」


 澄んだ空気の、冬の夕暮れ。


 六花の住む町から自転車通学している生徒は少なく、登下校は大体ひとり。大抵の人は自称・電車を利用している。

 六花の通う高校は女子高だ。けれども、隣りに建つ男子校との親交が深い。

 男子校の生徒との出会いのために、わざわざ不便な自称・電車を使うという友達も多かった。


 並んで歩く河西かさい翔太しょうたも、入学した頃は自称・電車を使って通学していた。けれどもいつの間にか、六花と同じ自転車通学に変わっていた。

 同じ町の出身。町には中学校がひとつしかないため、同学年の子供は否応なしに顔見知りになる。


 加えて六花と翔太は小学校も同じ――いわゆる幼馴染というやつだった。


「り……小峰さん、なんか足引きずってる? どっか怪我した?」


「んぁ、実は今朝坂で盛大にすっ転んじゃって……」


「え!? 大丈夫!? 病院行った?」


「そんな大したことはないよ。助けてくれた人もいたし、本当、全然へーき!」


「……そう? 痛むようだったら帰りうちに寄っていきなよ」


「しょ……河西くんのお家、小児科じゃん。大丈夫だって」


「18歳までは小児科だから。いつでも来ていいんだよ」


「やだよ、恥ずかしい」


 あはは、と笑い飛ばしてから、正直不味ったなあと反省する。

 チラと伺い見た先。翔太は曖昧に微笑んで、少しだけ唇を噛んでいた。


「本当に大丈夫ならいいんだけど……でも、心配だから。少しでもおかしいと思ったらいつでも来てね」


「う……分かったよ」


 ジワッと耳の輪郭が熱くなる。六花は素直な変化がバレないように、マフラーに深く顎を埋めた。


 翔太は優しい。町で唯一の小児科のひとり息子だからか、人一倍そう感じる。

 同級生の男の子たちからも浮いていたけれども、優しくて頭がいいからみんなに慕われていた。


 運動は中の下で、顔も特別イケメンというわけではない。特技と言えば幼稚園の頃から習っているピアノ。加えて歌がめちゃくちゃ上手い。小学校の謝恩会で披露した弾き語りで、ちょっとしたヒーローになっていた。


 そんな翔太に、六花は初恋のような想いを抱いたことがある。


 けれども小学校の修学旅行の夜に恒例のコイバナで、「翔太が好き」という女子が5人もいたことで、淡い想いは幻だと思うようにした。

 クラスで一番モテる女の子まで手を挙げていたから、希望が潰えた――なんて、そんなほろ苦さも同時に思い出してしまう。


「朝転んだんじゃ、学校遅刻したんじゃない?」


「うぅ……そう。1時間目どころか、着いたら3時間目終わってて」


「えっ、そんなに!? どこかで倒れてたとか?」


「えぇっと……倒れてたっていうか、介抱されてたっていうか……あっ、そうそう! あのお化け神社あるでしょ? そこの神主さん、すっごいイケメンなの! 河西くん知ってる?」


「……知らない。そんなことより、俺は小峰さんの具合を心配してるんだけど」


「だからそれは大丈夫だってば。私、丈夫だけが取り柄だし! それでそのイケメン神主さんが助けてくれてね。そもそも私がその神主さん轢きかけたのが原因だったりするんだけど」


「小峰さんは、イケメンが好きなの?」


 息継ぎのわずかなタイミング。

 翔太の呟きは鮮烈に空気を渡って、六花の言葉を制止する。


 六花は音を生みかけた空気を窄めて、コクッと小さく喉を鳴らす。


「え? えと……ん? 何?」


「小峰さんは、イケメンが好き?」


 迂闊に聞き返したことを後悔した。

 胸に感じた痛みを代弁するように、翔太がかけたブレーキがキィと鈍く鳴く。


 翔太の方が、数倍痛そうだった。


「う……わかん、ない……けど、イケメンは全人類好き、じゃない……?」


「……そうだね」


 翔太は力なく笑って、ブレーキを握った指先を解く。


 気まずい。


 ふと、翔太が歩く姿の向こうに目を遣る。空を焼きながら沈んでいくオレンジ。上の方が少しピンク色で、雲まで淡い色に染め上げていた。


 こちらを向いた翔太と目が合う。眼鏡の奥の瞳は色素が薄く、澄んだ薄茶色。夕陽を背に逆光になった顔の中で、その珍しい色の瞳が浮いて見えた。


 ドクン、と。血が湧く。


 息苦しさに唇を開くと、翔太も同じタイミングで吐息した。

 曖昧な形を結ぶ白が2つ。空中で解けて重なり、消えていく。


「小峰さんさ」


「……なに?」


「バレンタイン、誰かにチョコあげたりする?」


 翔太の鼓動が聞こえるように思うのは、幻想だろう。

 遠く、電車の顔で枕木を打つ車体の音が、心音を急き立てる。


「ぅ、えぇ……?」


「俺、小峰さんから、チョコ貰いたい。あの日――貰いそびれたから」


「……っ……」


 頬が燃えた。夕陽のせいだと言い訳できればよかったのに。

 思わずマフラーを引き上げて、火照る頬を隠した。


「考えておいてね」


 俯く間に、足元に差していた影が動く。ペダルにかかる足。ゆっくりと、車輪が回る。


「しょ……っ」


 咄嗟のことで元の呼び名が出かけて、すぐに引っ込めた自分が恨めしい。


――翔ちゃん


 そう呼べていたら、何かが変わったかも知れないのに。

 膨らんで、弾けそうになる思いが、針で突かれたように萎んでいった。


 変えられたのは、今じゃない。もっと遠い過去の話だ。


 思い出してしまった苦味を噛み締めて、六花はゆっくりとペダルを漕ぎだす。


 先を走る翔太に、決して追いつかないように。



 翔太の言葉が胸に引っかかっていたせいか、その日は過去の記憶をそのまま夢に見た。


 小学6年生のバレンタイン。


 修学旅行の夜に白状した「好きな人」にチョコレートを渡そう――そんな結束感と勇気を得た女子の集団は、やたらと強かった。


 つまりは、翔太のもとには5つのチョコレートが渡るわけで。


 ちなみに六花を含めた「好きな人はいない」と宣言した女子たちは、チョコレートを持ち寄ってクラス全員に配ることになっていた。


 休み時間ごとに呼び出される翔太。

 女子たちの間で決めたルールで、結果は聞かないことになっている。


 ついに5人全員の呼び出しが終わった放課後、翔太は六花に声をかけてきた。


――おれまだ、りっちゃんのチョコ貰ってない


 正確には六花のではない。とはいえ、六花が持ってきたチョコレートも入っている。

 六花は咄嗟に嘘をついた――本命チョコを貰った人にはあげない、と。


――全部断ったけど、それでもダメ?


 翔太は潔白を示すように、空の両手を振った。


――りっちゃんからのしか、欲しくないんだ


 そう言った翔太の声は、やけに小さく、聞き取りにくかった。


 六花は、机の中に隠したチョコレートの袋から自分のだけを取り出そうとした。


 その時ふと、「作戦決行!」と士気を高めた際に目にした本命チョコを思い出す。

 綺麗にラッピングされた、想いを伝えるためのチョコレート。

 片や手元にあるのは、大量パックの中の飾りもなにもない一粒。


 同じ土俵に立てない――というか、立ってはいけない。


 六花は机の中に袋の中身をそっとばら撒いて、空になった袋だけを翔太に見せた。


――もう、なくて


 その時目にした翔太の落胆した表情は――忘れられない。


「ふむふむ。なるほどねえ」


「……ん?」


 夢の世界に突然入り込む明らかに外野の声。


 というか多分、現実だ。


 パチンと目を開けると、見慣れた自室の天井が映った。その視界の端を、白い影がサッと過ぎる。


「やべっ」


 なんか今「やべっ」って聞こえた。


 六花は布団を除けて飛び起きる。影が向かったのはベッドサイドの窓の方。

 急いで視線を向けると、わずかに開いた隙間から白いもふもふがスルリと抜け出すところだった。


「猫……いや――狐……?」


 開けっ放しの隙間は閉じることなく放置され、氷点下まで冷え込んだ夜風が細く吹き込んだ。

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