春のギターと知らない歌

辛口カレー社長

春のギターと知らない歌

 三月の風は、いつだって埃と排気ガスの匂いを孕んで吹き荒れる。駅の自動ドアが開くたびに、生温かい突風が頬を叩いた。俺はコートの襟を立て、逃げるように改札を抜ける。

 年度末の金曜日、駅前のロータリーは解放感に浸る学生や、疲労をアルコールで誤魔化したサラリーマンたちで溢れかえっていた。世界中が浮ついているような、この独特の空気が俺は苦手だった。誰も彼もが、何かの始まりを予感して輝いて見える。自分がその輪の外側にいることを、まざまざと思い知らされる季節だ。


 駅前のペデストリアンデッキの片隅に陣取る人影を見て、俺は心底うんざりしてため息をついた。。

 ――今年もまた、沸いて出たか。

 ストリートミュージシャンだ。アコースティックギターを抱えた若い人間が、頼みもしないのに声を張り上げている。最近の流行りなのか何なのか知らないが、俺にとっては胸糞悪い雑音以外の何物でもなく、通行を阻害する障害物でしかない。五十二歳という年齢になると、かつて自分にもあったかもしれない情熱や夢といったものは、三十年の会社員生活ですっかり摩耗し、今では平穏無事と定年だけを願って生きている。だからこそ、若さが持つ無軌道なエネルギーが、眩しいというよりは疎ましかった。

 視線を逸らし、バス停への最短ルートを取ろうとした時。

 ――ん? あの人は……。

 その「障害物」に見覚えがあった。確か去年も同じ時期、同じ場所で歌っていた気がする。若い女性だ。年齢は二十歳前後だろうか。飾り気のない白いシャツに、色落ちしたデニム。まだ肌寒いというのに薄着で、華奢な体が風に揺れているように見えた。

 何より目を引いたのは、彼女が抱えているギターだ。小柄な彼女の体躯に対して、そのギターは異様に大きく見えた。ドレッドノートと呼ばれる大型のボディは、彼女が抱えているというよりは、彼女がギターにしがみついているようにも見える。

 ――不格好だな。

 心の中で呟く。しかも、ギターのボディは傷だらけで、あちこちに打痕があり、塗装が剥げている部分さえある。大切にされていないのか、あるいは酷使されすぎたのか。どちらにせよ、煌びやかな駅前のイルミネーションの中では、ひどく見すぼらしく映った。

 彼女は、誰も立ち止まらない雑踏に向かって、何かを歌い始めようとしていた。

 ――どうせありきたりなラブソングか、自分探しの歌だろう。

 俺は興味を失い、バス停へと足を速めた。早く家に帰って、熱い風呂に入りたい。冷え切ったビールを流し込み、この騒がしい世界をシャットアウトしたかった。

 その時だった。背後からギターのストロークが聞こえた。ジャラーンと、あまり上手いとは言えない、少しぎこちない音色。しかし、続くコード進行が、俺の足をセメントで固めたかのようにピタリと止めた。

 ――まさか。

 風の音にかき消されそうな、頼りないアルペジオ。その旋律を俺は知っていた。いや、知っているどころの話ではない。脳の奥底にある引き出しが、錆びついた音を立てて勝手に開いていく。


『春は好きじゃない  嫌いってわけじゃないけど 苦手なんだ  ショーウィンドウの新しい服も  誰かの門出を祝う花束も  今の僕には 眩しすぎて』


 透明で、それでいて少しハスキーな歌声が風に乗った。心臓が早鐘を打つ。歌詞の一言一句が、俺の記憶を駆け巡る。

 無意識のうちに、俺の足はバス停ではなく、彼女の方へと引き返していた。ロータリーの植え込みの影から、そっと彼女を見る。誰も彼女を見ていない。スマホを片手に通り過ぎる高校生、大声で笑い合う会社員たち。彼らにとって、ストリートミュージシャンの歌はただの背景音に過ぎない。だが、今の俺にとっては違った。


『みんながそわそわして 浮足立っているのを見ると  とてつもなく寂しくなる  世界中でたった一人  重力に縛られているような気がして』


 あれは、俺が中学生の頃だ。もう三十年以上前になる。

 クラスに馴染めず、野球部でも補欠で、何者にもなれない焦燥感を抱えていた十四歳の春。自分の気持ちを代弁してくれる言葉を探して、ラジオのチューニングを合わせていた日々。

 当時、深夜ラジオにかじりついていた俺は、あるマイナーなフォークシンガーの曲に出会った。名前はもう、世間の誰も覚えていないだろう。「カズマ」という、ありふれた名前の男性歌手だった。

 ヒットチャートにかすりもしなかったその曲は、シングルのB面、いわゆるカップリング曲だったはずだ。タイトルは『逃げ水の季節』。華やかな桜の歌でも、旅立ちの応援歌でもない。春という季節が連れてくる、漠然とした不安と孤独を淡々と歌った曲だった。この曲は、あの頃の俺の聖書だった。誰にも理解されないと思っていた自分の孤独が、カセットテープの中でだけは肯定されていた。


『置いていかないでくれと 影が泣いている  アスファルトの陽炎 逃げ水のような夢』


 曲も、歌手も、決してパッとしなかった。派手なサビがあるわけでもない。 だが、俺は好きだった。本当に、好きだったんだ。でも、そんな昔の、しかもマイナーな曲を、目の前で歌っている若い女性が知っているはずがない。どう見ても彼女は二十代前半。この曲がリリースされた時、きっと彼女はこの世に生まれてさえいない。

 ――最近の歌手がカバーしたのか?

 いや、そんなはずはない。スマホで検索してもヒットしないような曲だ。

 彼女の指が、フレットの上を滑る。Fのコードを押さえる手が、少し苦しそうに見える。バレーコードが苦手なのだろうか。音が少しビビっている。その拙さが、かえって胸を締め付ける。かつて俺も、安いギターを買ってこの曲を練習したことがあったからだ。Fコードが押さえられなくて、指先に豆を作って、結局諦めてしまった。彼女は諦めずに、弾いている。

 ――痛みに耐えるように。


『近づけば遠ざかる 約束の場所  掴んだと思えば 指の隙間をすり抜ける  それでも まだ  喉が渇いているんだ』


 二番の歌詞が、今の俺の心臓をえぐる。就職し、結婚し、子供が生まれ、必死に働いてきた。何かを掴んだつもりでいた。でも、掌を開いてみれば、そこには砂粒ひとつ残っていないような虚無感に襲われる夜がある。

 ――喉が渇いている。

 そうか。俺はまだ、渇いていたのか。諦めたフリをして、本当はまだ、あの頃の夢の続きを――逃げ水を追いかけたかったのか。


 曲が終わった。アウトロのGコードが、余韻を残して消えていく。拍手はなかった。雑踏のノイズが、すぐにその空白を埋め尽くす。

 彼女は小さく息を吐き、ギターのボディに手を置いた。その表情は、歌い切った満足感というよりは、何か大切な儀式を終えた後のような、閑寂かんじゃくなものだった。 彼女が譜面台を片付けようと身を屈めた時、俺は思わず声を上げていた。

「あの……」

 自分の声が、思ったよりも掠れていた。

 彼女が顔を上げ、俺を見る。大きな瞳が見開かれ、少し怯えたような色が走った。無理もない。くたびれたスーツを着た中年の男がいきなり声をかけてきたのだ。文句を言われるとでも思ったのだろう。

「すみません、怪しい者じゃないんです」

 俺は慌てて両手を少し上げた。

「その曲……」

 言葉が詰まる。

 ――なんて言えばいい?

 ――懐かしかった?

 ――感動した?

 そんなありきたりな言葉では、到底説明できない。

「その曲を、どこで知ったんですか?」

 ようやく絞り出したのは、そんな質問だった。彼女は瞬きをして、それから少しだけ警戒を解いたように肩の力を抜いた。

「ご存知、なんですか?」

「ええ。三十年以上前の曲だ。カズマの『逃げ水の季節』。とても好きな曲でした」

 俺がタイトルを告げると、彼女は息を呑んだ。まるで幽霊でも見たかのような顔で、俺を凝視する。

「父以外でこの歌を知っている人に、初めて会いました。ネットにもほとんど情報がないし、レコードだって、もうどこにも売ってないから……」

 そうだろうな、と俺は思った。ずいぶん前に、廃盤になったはずだ。

「俺は昔……中学生の頃、ラジオで聴いて好きになったんです。レコードも持っていた。でも、君くらいの年齢の子が知っているなんて」

 彼女は視線を落とし、抱えているギターに目を向けた。ボロボロの、大きすぎるギター。彼女の指が、愛おしそうにその傷だらけのボディを撫でる。サウンドホールの周りは、ピックで削れて木肌が剥き出しになっている。

「父が、一番好きだった曲なんです」

 ぽつりと、彼女が言った。彼女の父親。おそらく、俺と同年代だろう。

「お父さんはミュージシャンだったの?」

「いいえ、全然」

 彼女は少し寂しそうに、でも誇らしげに微笑んだ。

「普通のサラリーマンでした。平日は遅くまで働いて、休みの日は家でゴロゴロしてて。でも、天気のいい日曜日には、縁側でこのギターを弾いてくれました」

 脳裏に浮かんだのは、見知らぬ同年代の男の姿だった。仕事に追われ、家族を養い、それでも手放さなかったギター。俺が途中で投げ出したFコードを、彼は押さえ続けたのだろう。

「私が小さい頃、父はよく私を膝に乗せて、この歌を歌ってくれました。『春は寂しい季節だけど、お前がいれば大丈夫だ』って、いつもそう言って」

 彼女の目が、駅前の灯りを反射して潤んでいる。

「あんまり上手じゃなかったんです、父の歌。高音は出ないし、リズムもたまに走るし。でも……私は好きでした。父の歌も、この曲も、ギターを弾いている時の、父の顔も……」

 言葉の端々に、「過去形」が混じることに、俺は気づかないふりはできなかった。

「あの、お父さんは……」

「去年、亡くなりました」

 さらりと彼女は言った。でも、その声には、まだ乾ききっていない心の痛みがあるように思えた。

「病気が見つかって、あっという間でした。最後の方はずっと入院していて、ギターも弾けなくなって……。でも、病室でこの曲の話をすると、嬉しそうにしてくれたんです」

 彼女はギターのネックを強く握りしめた。

「このギター、父の形見なんです。ずっと押し入れにしまってあったんですけど、去年の春、父が亡くなった後に引っ張り出してきて」

「それで、ここで歌を?」

「はい。父が大好きだったこの場所で、父が好きだった歌を、誰かに聴いてほしくて。変ですよね。こんな古い歌、誰も知らないのに」

 自嘲気味に笑う彼女を見て、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 変なものか。俺は、さっきまでの自分を――彼女を「雑音をまき散らす迷惑者」と断じ、見下していた自分を猛烈に恥じた。

 この大きなギターは、彼女にとって単なる楽器ではない。父親そのものなのだ。傷だらけのボディは、父親が生きてきた証だ。剥げた塗装は、彼が積み重ねた日々の痕跡だ。不格好に見えたのは、彼女がまだ父親の背中を追いかけている途中だからだ。

「変じゃないよ」

 俺は強く言った。

「ちっとも変じゃない。いい歌だ。いい、お父さんだ」

 彼女が顔を上げる。

「君の歌を聴いて分かったよ。お父さんが、どれだけこの曲を大切にしていたか。そして、どれだけ君のことを大切にしていたか」

 俺の言葉に、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。慌てて袖で拭うが、涙は次から次へと溢れてくる。

「父も喜びます。この曲を知ってる人が、覚えてる人がいてくれたなんて」

「俺の方こそ、ありがとう。この曲に、また会わせてくれて」

 俺はネクタイを少し緩めた。冷たいはずの夜風が、今は心地よく感じられた。


 俺たちは、「何者」にもなれなかったかもしれない。カズマも、彼女の父親も、そして俺も。歴史に名を残すこともなく、日々の生活に埋没していくだけの、ただのちっぽけな存在かもしれない。でも、こうして誰かの心に種を蒔くことはできる。三十年前のB面の曲が、父親から娘へ受け継がれ、そして今、疲れ切った中年男の心を救ったように。それは、どんなヒット曲よりも価値のある奇跡に思えた。

「もう一度だけ、歌ってくれませんか?」

 俺は言った。小さな、けれど偉大なミュージシャンは、涙に濡れた顔で力強く、大きく頷いた。

「はい!」

 彼女が再びギターを構える。カポタストの位置を直し、チューニングを確認する。その仕草が、先ほどよりも堂々として見えた。きっと彼女の背後には、今、父親が立っている。一緒に指板しばんを押さえ、一緒に息を吸っている。


 ジャラーンと、コードが鳴る。さっきよりも音が太く、遠くまで響く気がした。


『春は好きじゃない――』


 彼女の歌声が、夜のロータリーに溶けていく。通り過ぎる人々は相変わらず無関心だ。

 電車の音、バスのアナウンス、笑い声。世界はノイズに満ちている。でも、今の俺には、その歌声だけが、鮮明な色彩を持って聞こえていた。


『それでも花は咲き 風は明日へ吹いていく  逃げ水を追いかけて 僕らは歩き続ける  かっこ悪くてもいい 泥だらけの靴でいい  春の光の中を ただ、歩いていく』


 春の風に乗って、その歌は世界の隅々まで届く……届いてほしい。そう願う。そして俺は、いつの間にか春のことが少しだけ好きになっている自分に気づいていた。

 歌が終わると、俺は手が痛くなるほど拍手をした。彼女は満面の笑みで、深々と頭を下げた。その笑顔は、駅前のどんなイルミネーションよりも輝いて見えた。

「ありがとう」

 俺は短く告げ、歩き出した。振り返ると、彼女はまだ俺の背中に向かって頭を下げていた。

 駅前の雑踏は相変わらずだ。でも、耳障りだった騒音は、なぜか生きている街の鼓動のように感じられる。

 春は、やはり寂しい季節かもしれない。でも、逃げ水を追いかけて歩くのも、そう悪いことじゃない。

 俺はカバンを持ち直し、少しだけ軽くなった足取りで、家路を急いだ。


(了)

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