☆3かいめ☆ 救世主はおやつ?

朝の穏やかな光が、古びたアパートの窓から差し込む。

ラビリスは、深い眠りから、腹部にのしかかる確かな重みでゆっくりと覚醒した。


「う、う~ん……むにゃむにゃ……なんじゃ、この重圧は……」

寝ぼけた声で呟き、彼女は重い瞼をゆっくりと開いた。


お腹の上に視線を移すと、そこには漆黒の毛並みを持つ魔獣、リキがいた。

リキは前足を体内に完璧にしまい込んだ『香箱座り』という無敵の体勢で、ラビリスの腹部にドッシリと鎮座していた。


「……ッ!!!」

恐怖と驚愕で、ラビリスの真紅の瞳が最大まで見開かれる。


「あ……ぐ……ぐぅぅぅう……」

喉からは、情けない、絞り出すような音しか出ない。

魔族の誇りも全てを忘れ、彼女は漆黒の猫に、完全に金縛りにされた。



「くっ、この無礼者め!なぜそのようなところで平然と鎮座しておる!」

ラビリスは、震える体で何とか声を出した。

「余は魔王ヴィラルが娘ラビリスじゃぞ!……ハッ、まさか余よりも貴様が上だと、そう言いたいのか!?」


「なんたる屈辱……!かくなる上は、この場で貴様に引導を渡し、どちらがこの部屋の支配者かはっきりさせるしかあるまい!」

ラビリスの盛大な宣戦布告に対し、リキは長い鍵しっぽを揺らし、欠伸を一つ漏らした。



ふいに、リキが全身の毛並みを滑らかに動かし、優雅に立ち上がった。

そして獲物に忍び寄るように、ゆっくりとラビリスの顔に向かって歩き始めた。


「え、なに?待つのじゃ!待て!」

ラビリスの悲鳴に近い声が部屋に響く。

「余が悪かった!す、すまなかった!なんなりと要求を申せ!話し合いを所望する!」


だが、リキは一切の感情を顔に出さず、一定の速度で顔に近づく。

ラビリスは、もはや幼児の癇癪のような声で叫んだ。

「いや、待てって!近い!近い近い近いっ!!」


リキは、ラビリスの顔を匂いで確認するように「くんくん」と嗅いだ。


そして次の瞬間、赤い舌を出し、彼女の頬をひと舐めした。


ザラッ!


「ひぎゃあああああああああああ!!!」


もはや言語ではない、純粋な恐怖の悲鳴が、朝の静寂を木っ端微塵に打ち砕いた。



「うわっ!なんだなんだなんだ!!?」

大地は床に敷いたタオルケットから、バネ仕掛けのように跳ね起きた。

寝ぼけた頭で、何が起きたのか状況を把握しようと、目を擦りながらラビリスに視線を向ける。


すると、彼女は顔を真っ赤にして、頬を強く押さえながら「あー!あー!」と金切り声を上げていた。

その震える指先が指し示す先には、何事もなかったかのように、優雅に座り直したリキがいた。



「なんだ……またリキにいじめられたのか」

大地は状況を察し、小さくため息を吐いた。

彼はラビリスには目もくれず、床に座ったままリキに両手を広げた。

「ほら、おいで」


するとリキは先ほどの威圧感が嘘のように、弾かれたように大地の脚に飛び乗り、ゴロゴロと甘えた声で喉を鳴らし始めた。


「だめじゃないか、リキ」

大地は諭すような優しい声で言った。

「ラビリスをそんなに怖がらせちゃ」

彼はその漆黒の背中を、何度も、何度も、優しく撫でていた。



「貴様っ!」

ラビリスは叫ぶように言った。

「どうやって、その邪悪な魔獣を手懐けたのじゃ!!その秘術を言え!」

その指先は、いまだリキを指し示している。


「どうやっても何も、大したことはしてないよ」

大地は柔らかな微笑みを浮かべて答える。

「ただ、ずっと一緒に暮らしている家族ってだけだ」


(このような魔獣と家族じゃと!?まさか、こやつ人間の皮を被った魔族なのか!?)

ラビリスは疑うように大地を観察していた。




「あのさ、ちょっと真面目な話」

大地はリキを撫でる手を止め、ラビリスに向き直った。

「ラビリスは本当に、魔王の国?から来たのか?」


「ん?何を馬鹿なことを言っておる?」

ラビリスは心底不思議そうに、真紅の瞳を瞬かせた。

「父上は国などという小さな囲いは持っておらぬ。レグリシアの北の大地は、すべて父上のものじゃ!そんなこと、人間であれど常識であろう?」



「レグ……なんだって?」

聞きなれない言葉に、大地は混乱した。


「レグリシアじゃ!」

ラビリスは苛立ちを滲ませた。

「ここは我らが世界、レグリシアのどこかにある人間の小国ではないのか!?」

彼女の混乱は明白だった。


「いやいや」

大地は大きく頭を振った。

「ここは、地球にある日本っていう国だ。そのレグリシア?なんて、きっと誰も知らないぞ?」


「……え?」


「……え?」


二人の間に重い沈黙が落ちた。そして、揃って顔を見合わせ、まるで鏡のように、互いに首を傾げた。





「で、では……余は、レグリシアのどこかではなく、まったくの見知らぬ異世界に飛ばされたと……?」

ラビリスは全身の力を失ったように、ワナワナと小刻みに震えながら、蚊の鳴くような声で呟いた。


「た、多分そうじゃないかな……」

大地は口の中がカラカラになるのを感じながら、どうしようもない現実を肯定した。




その後、数秒間の重い沈黙があった。

やがて、ラビリスの真紅の瞳から、大粒の涙が堰を切ったようにぽろぽろと溢れ出した。


「うわああああああん!!ぢぢう゛え゛ぇぇぇええええ!!がえりだいよぉおぉ!!」


先ほどの威圧感は完全に消え失せ、ただの迷子の幼女が耳をつんざくような大声で泣き叫んだ。


「ちょ!待て待て待て!」

大地は隣室の壁を意識して顔を青くした。

「そんなこと大声で言ったら、通報されるだろ!」

彼は慌てて両手で、ラビリスの小さな口を塞いだ。




彼女の大きな泣き声に、大地の頭は完全にパニック状態だった。

その中で、彼の凡庸な脳内に、一つの安易な閃きが走った。


(そうだ、子供は甘いものだ!)


「くそっ!財布しかねぇ!」

彼は慌てて、床に転がっていた通勤鞄を漁ったが、泣き止ませるための甘味は見つからない。


だが、その時!大地の指先が、鞄の隅に転がっていた円筒形の物体に触れた。

彼の顔に、一筋の光明が差す。


「これならいける!!」


彼は救世主を見出したかのように、そして聖剣を引き抜くかのように鞄から手に持った円筒を引き抜き、テーブルの上に勢いよく叩きつけた。



ダンッ!(じゃがりこ)



すると、ラビリスの耳をつんざくような泣き声が、ピタリと止まった。

彼女は涙で濡れた顔を上げ、強い好奇心を込めて、その円筒形の容器に視線を向けた。


「こ、これは……」

涙で濡れた目元を袖で擦りながら、ラビリスはテーブル上の円筒を指差した。

「昨日のカップ麺とやらと同じ形をしているが……?」

その声には、既に泣き止んだ後の好奇心が混じっていた。


「ふっふっふ……ノン、ノン」

大地は人差し指を立てて言った。

「確かに容器は似ているが、こいつは『じゃがりこ』といって、中身は別次元の食べ物だ!さあ、とくとご覧あれ!」


彼は円筒のフタを盛大に、そして勢いよく剥がした。


ベリッ!


フタが開いた瞬間、中から熱した油と香辛料が混ざり合った、抗いがたい香ばしい匂いが、勢いよく立ち昇った。

ラビリスは、思わずゴクリと喉を鳴らす。



「なんじゃ……?細く切られた木の枝か、それとも乾燥した獣の骨か?」

ラビリスは円筒を覗き込み、真紅の瞳で分析するようにそう呟いた。


「まぁ食べてみろ!食べればわかる!」

大地は意気揚々と言った。



すると、ラビリスは慎重にじゃがりこを一本つまみ、覚悟を決めたように口に入れた。



カリッ、サク!



「……っ!!!!!」

彼女の瞳が再び大きく見開かれる。


(な、なんじゃこの食感は!?イモか!?イモなのか!!?……この濃厚な甘みと塩気!そして、カリカリサクサクという至福の歯触り!至高……!)



ラビリスは我を忘れてじゃがりこを両手で掴み、小さな口に次々と詰めていく。

「カリカリ、ボリボリ」と賑やかな音が部屋に響き渡る。



大地はリキを抱きかかえたまま、心底ホッとした表情で見守っていた。


(魔王の娘を救ったのが『じゃがりこ』とか……。さすがは日本の企業……いつも美味しいお菓子をありがとうございます!!)

彼は心でそう感謝を述べ、どことも分からぬ方向に深く頭を下げた。



やがて、円筒の中が空になる。ラビリスは満足感に満たされ、深い息を吐いた。

「うむ、この『じゃがりこ』とやらは至高なり」

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