第10話:朝食から始まる明日
騒動から数日が過ぎ、学院を包んでいた緊張の糸は、空の果ての穏やかな風に解かされていった。 あの日、門の前で私を縛り付けようとした人々は、もうここにはいない。公爵家は聖女の虚偽と学院への不当な介入を糾弾され、王家による厳しい監査の下でその特権を剥奪されたと聞いた。
けれど、今の私にとってそれは、どこか遠い異国の出来事のように感じられた。
今、私の世界のすべては、この朝陽が差し込む高い天井の食堂に凝縮されている。
「……ふわふわだ」
目の前に置かれた一皿を見て、思わず吐息が漏れた。 黄金色に焼き上げられたオムレツ。ナイフを入れずとも、そのふっくらとした輪郭が、丁寧に空気を抱き込んで作られたことを物語っている。添えられた焼きたてのカンパーニュからは、香ばしい小麦の香りが立ち上り、私の鼻腔を優しくくすぐった。
「見惚れてないで、さっさと食え。冷めたら味が落ちるぞ」
向かいの席から、ぶっきらぼうな、けれど柔らかな声が届いた。 カイルだ。彼は大きな口でパンを齧りながら、不器用に口角を上げている。かつての鋭い騎士の眼光は、今はどこか穏やかな、年相応の少年のものに変わっていた。
「わかってます。でも、あまりに綺麗で……。あの日、最初に飲んだスープのことを思い出していたんです」
私はスプーンを取り、オムレツの端をそっと掬った。 感触は驚くほど軽い。口に運ぶと、濃厚な卵の旨みとバターの香りが、舌の上で淡雪のように溶けて広がった。
「……おいしい。本当に」
「ああ。今日は一段といい顔をしてるな、リアナ」
カイルが、私の顔をじっと見つめて言った。 その言葉に、私は自分の頬に手を当てた。 かつて鏡の中にいた、青白く、感情の死んでいた幽霊のような少女はもういない。今の私は、温かな食事を噛み締め、誰かと言葉を交わし、自分の足でこの場所に立っている。
「震えてないんだな、もう」
カイルの視線が、私の手元に落ちた。 そうだ。かつては食事のたびに、いつ皿を取り上げられるか、いつ罵倒されるかと、指先が勝手に震えていた。けれど今、私の手は静かに、確かな重みを持ってスプーンを握っている。
「はい。……怖くないんです。ここは私の場所だって、ちゃんと分かっていますから」
「そうか。……なら、これもお前の『権利』だ」
カイルは自分のトレイにあった蜂蜜の小瓶を、私の前へと押し出した。 「甘いもんは、心を強くするらしいぜ。寮監の受け売りだがな」
「ふふ、ありがとうございます。カイル」
私はパンに蜂蜜を垂らし、大きな一口を頬張った。 広がる甘みは、私の心の奥底に残っていた、冷たい澱(おり)をすべて洗い流してくれるようだった。
周りを見渡せば、同じ寮の仲間たちが笑い合い、昨日の試験の結果や、今日の授業の予習について賑やかに語り合っている。そこには、身分も、魔力の量も関係ない。ただ、共に学び、共に食べるという、当たり前で、何よりも尊い「日常」があった。
「ねえ、カイル。私、決めたんです」
「何をだ?」
「私の『境界(ライン)』。あれは、誰かを拒絶するためだけじゃなく、大切な人を守るために磨いていきたい。……あなたが私を守ってくれたように、私もいつか、自分の場所を守れるようになりたいんです」
カイルは少しだけ目を見開き、やがて優しく目を細めた。 「……いい目標だな。期待してるぜ。まあ、お前の盾役は、当分俺が譲るつもりはないけどな」
「期待しています、私の騎士様」
二人の笑い声が、朝食の喧騒に溶けていく。 首筋に残っていた痣は、まだ完全には消えていない。家族から受けた傷跡は、これからも時折、私を疼かせるのかもしれない。 けれど、そのたびに私は、この朝食の温度を思い出すだろう。
誰の身代わりでもない。 誰かのための電池でもない。 私は、リアナ。
温かな一口が、私の体の一部となり、明日を作る血肉となる。 私の人生は、今、この輝くような食卓から、ようやく始まったばかりなのだ。
窓の外では、空の果てを突き抜けるような青空がどこまでも広がっている。 私は最後の一口を飲み込み、輝く世界へと向かうために、力強く席を立った。
「さあ、行きましょう、カイル。今日の授業も楽しみです!」
「ああ。遅れるなよ、リアナ」
眩しい光の中へ、私は一歩を踏み出す。 その足取りは、羽が生えたように軽やかだった。
【完結】
全10話、リアナの物語を最後までお読みいただきありがとうございました。 彼女が手に入れた「境界」と「朝食の幸せ」が、あなたの心にも温かな光を灯せますように。
『身代わりの聖女は、空の果ての寮で朝食を食す』 〜魔力を奪われ続けた私、境界を引く魔法で自分を取り戻す〜 春秋花壇 @mai5000jp
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