第9話:決別の境界線(アブソリュート・ライン)

学院の正門が、暴力的な魔力の衝撃によって悲鳴を上げた。


「リアナ! どこにいる、リアナ! 恥知らずな娘め、出てきなさい!」


鉄錆の匂いと、焦燥に駆られた人間のどす黒い殺気が、静謐な学院の空気を汚していく。 駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、公爵家の私兵を従え、怒りに顔を真っ赤に染めた父の姿だった。その傍らには、見る影もなく窶(やつ)れ、狂気的な目で校舎を睨みつけるミシェルと、冷酷な笑みを浮かべる母がいる。


「お姉様……お姉様、そこにいるんでしょう!? 早く、早く私に光を頂戴! 私の肌が、私の聖女としての誇りが、みんな消えてしまうわ!」


ミシェルの叫びは、もはや悲鳴というよりは飢えた獣の咆哮だった。 私は、カイルが隣で剣の柄に手をかけるのを感じながら、一歩前へ出た。 膝は震えていない。胃の奥は、今朝食べた温かいパンの熱で満たされている。


「お父様、お母様。……ミシェル。お帰りください。ここはあなたたちの来る場所ではありません」


「黙れ! お前のような『器』が、親に向かって何を言うか!」 父が、警備の制止を振り切り、獣のような足取りで私へと詰め寄る。 「お前はエリス家の所有物だ。お前の魔力も、肉体も、その命すらも私の許可なく使うことは許さん! さあ、来い。地下室で己の罪を数えながら、ミシェルのために死ぬまで魔力を差し出すんだ!」


父の大きな手が、空を切り、私の腕を掴もうと伸びてくる。 かつての私なら、その手の影を見ただけで竦み、なすがままに引きずられていただろう。 けれど今、私の視界は驚くほど澄んでいた。


(……ああ、そうか。この人たちは、本当に私のことを見ていないんだ)


父が見ているのは「便利な貯蔵庫」。 母が見ているのは「家格を保つための生贄」。 ミシェルが見ているのは「自分を飾るための鏡」。 そこには、リアナという一人の人間は、最初から存在していなかった。


「……拒絶します」


私は、短く、凛とした声で告げた。 手にした樫の木の杖を、地面へと突き立てる。 私の中で滔々と巡り、温かな生活によって育まれた魔力が、初めて明確な意志を持って形を成した。


「これ以上、私の中に入ってこないで――『絶対境界(アブソリュート・ライン)』!!」


――キィィィィィィィンッ!!


空気が爆ぜるような高音が響き、私を中心に眩いほどの「透明な壁」が展開された。 それは光の膜であり、同時に鋼よりも硬い概念の拒絶だった。


「ぐわっ……!? なんだ、これは!」 私を掴もうとした父の手が、見えない壁に弾き飛ばされた。 父は無様に地面に転がり、信じられないものを見る目で私を仰ぎ見る。


「何をしている、リアナ! その不遜な魔法を解け! 親に対して壁を築くなど、人の道に外れていると思わんのか!」


「いいえ。これは私を守るための壁です。あなたたちが踏み荒らしていい場所は、もうここにはどこにもありません」


私は、透明な壁越しに父を見据えた。 ミシェルが狂ったように拳で壁を叩き、爪を立てて叫ぶ。 「開けてよ! お姉様、ずるい、ずるいわ! どうしてそんなに強い力を持っているの!? それは全部私のものよ、私のために使いなさいよ!」


壁を叩く音。罵声。呪詛。 けれど、そのすべてが、私の心には一欠片も届かなかった。 どれほど叩いても、その透明な壁は揺らぎもしない。 なぜなら、この壁の強度は、私が私自身を愛すると決めた決意の強さそのものだからだ。


「……ミシェル。あなたは、私がいなければ自分が何者でもないことを、一番よく分かっているはずよ」


私の静かな言葉に、ミシェルがぴたりと動きを止めた。 「あなたは私から魔力を奪って『聖女』を演じていたけれど、中身は空っぽ。私を道具として扱わなければ立っていられないほど、あなたは脆くて、寂しい人」


「な……っ」


「お父様も、お母様も。私を支配することでしか自分たちの価値を証明できない、かわいそうな人たち」


壁の向こう側で、三人の顔が、屈辱と恐怖で歪んでいく。 自分たちが「全能の支配者」ではなく、一人の少女の自立によって一瞬で崩れ去る、砂の城の住人に過ぎないことを突きつけられたのだ。


「連れて行け。二度とこの門をくぐらせるな」 学院の警備兵たちが、強制排除の魔法を起動させる。


「リアナ! 後悔させてやるぞ! お前など、外に出れば生きてはいけ……っ!」 父の叫びは、転移魔法の渦の中に飲み込まれて消えた。


静寂が戻る。 私はゆっくりと杖を引いた。 透明な壁が、光の粒子となって空気中に溶けていく。 残ったのは、冷たくも清々しい、空の果ての風だけだった。


「……終わったな」 カイルが歩み寄り、私の肩に手を置いた。その手は、かつての枷よりもずっと、私を自由にする温もりを持っていた。


「はい。……もう、大丈夫です」


私は、実家の家族が消えた場所を、一度も振り返らなかった。 私の視線の先には、寮の窓から顔を出して心配そうにこちらを見ている仲間たちと、明日もまた用意される、温かい朝食の時間が待っている。


境界を引くということは、孤独になることではない。 自分を大切に扱ってくれる人を、選べるようになるということだ。 私は深く、新しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


【第9話 完】


次回予告:最終話「朝食から始まる明日」 嵐は去り、リアナには本当の「日常」が訪れる。 誰の身代わりでもない、一人の特待生としての新しい生活。 カイルと共に囲む食卓。湯気の向こうに広がる、色彩に満ちた未来。


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