第7話:歪んだ鏡(愛玩子の焦り)
エリス公爵家の、あの壮麗な鏡の間が、今はただの「絶望の箱」と化していた。
かつては薔薇の芳香が満ちていた部屋に、今は鼻を突くような苦い薬草の匂いが澱んでいる。 カシャン、と甲高い音が響き、最高級のクリスタルで作られた鏡が粉々に砕け散った。
「嫌……嫌、嫌!! こんなの、私じゃないわ!」
ミシェルの悲鳴が、冷え切った壁に反響する。 床に座り込む彼女の手には、重厚な銀の手鏡が握られていた。かつて「神の祝福を受けた」と讃えられた彼女の肌は、今や見る影もなくくすみ、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。 何より、指先から溢れていたはずの眩い聖なる光が、今は消えかけの蝋燭のように頼りなく明滅しているだけだった。
「ミシェル、落ち着きなさい。また顔に皺が増えてしまうわ」 母・エレナが駆け寄り、娘の肩を抱こうとする。 だが、ミシェルはその手を激しく振り払った。
「落ち着けるわけないでしょう!? 見てよ、この髪! この肌! 魔法が、魔法がうまく編めないのよ! 昨日の夜会でも、怪我人を癒そうとしたら光が霧散して……みんな、私を偽物を見るような目で見ていたわ!」
ミシェルは狂ったように自分の腕をかきむしる。 リアナという「外部バッテリー」から切り離されて三週間。彼女の体内にある蓄魔石の貯蔵は底をつき、自分の魔力を持たないミシェルの虚像は、内側から崩壊を始めていた。
「お姉様よ……お姉様がいないせいだわ! あの役立たずの、日陰者の、不気味なお姉様! どうしてお父様はあんなところへお姉様を送り出したの!?」
「ミシェル、それはお前が『学院は牢獄だ』と言ったから……」 父・エリス公爵が苦々しく口を開くが、ミシェルの逆上は止まらない。
「私が言ったからって、本当に行かせるなんて馬鹿じゃないの!? あんなの、私のための道具じゃない! 道具が勝手な場所へ行くのを許すなんて、飼い犬の手綱を放すのと同じよ!」
ミシェルの瞳に宿っているのは、姉への情愛などではなかった。 それは、便利な道具を紛失した飼い主の、傲慢な怒りと焦燥だ。彼女にとってリアナは、自分を「完璧な聖女」として彩るための背景であり、泥を被ってくれる影だった。 リアナという対比があって初めて、ミシェルは眩い光でいられたのだ。
「お姉様がいなきゃ、私はただの『何もできない子』になってしまう……。それだけは、絶対に嫌!!」
ミシェルは鏡の破片を素手で掴んだ。手のひらから血が流れる。 その痛みさえ、彼女にとっては「リアナを失ったことによる実損」としてしか認識されない。
「公爵、もう限界ですわ」 エレナが、血を吐くような思いで夫を睨んだ。 「王宮からの寄付金も、聖女の奇跡が途絶えたことで差し止めを検討されています。このままでは、エリス家は破滅です。学院の規則など知ったことではありませんわ。今すぐに、力ずくでリアナを連れ戻しなさい」
「わかっている……。だが、あの学院は王家の直轄だ。正攻法では門も開かん」
「なら、不法侵入でも拉致でも何でもなさいな! あの子は私たちの『所有物』です。親が子をどう扱おうと、それは私事のはずですわ!」
エレナの顔は、かつての貴婦人の面影を失い、醜い執着に歪んでいた。 エリス公爵家という「虚飾の城」を維持するためには、リアナという生贄が不可欠だった。彼女たちは、自分たちがリアナを愛していたのではなく、リアナを搾取することで得られる「特権」を愛していたことに、この期に及んでも気づいていなかった。
「お父様、約束して」 ミシェルが、血に濡れた手で父の袖を掴んだ。その瞳には、暗い、底なしの依存が渦巻いている。
「お姉様を連れ戻したら、今度は絶対に逃げられないようにして。地下室に閉じ込めて、枷(かせ)を二重にして、一日中私のために魔力を吐き出させるの。……それが、お姉様の幸せなんですものね?」
「……ああ、そうだ。ミシェル。お前の言う通りだ」
公爵は、闇に沈んだ書斎を見つめた。 「連れ戻し隊を編成する。学院の守護結界に干渉できる禁呪の魔導具を準備しろ。何としても、我が家の『貯蔵庫』を回収するのだ」
実家のダイニングに漂うのは、腐敗した執着の匂い。 かつてリアナが座らされていた冷たい席は、今はただ、主を失った不気味な空白として存在している。 けれど、その空白を埋めるために動く者たちの心には、もはや人間としての温もりなど一欠片も残っていなかった。
「待っててね、お姉様……」 ミシェルは、砕けた鏡に映る自分の醜い顔を見つめながら、歪んだ笑みを浮かべた。 「すぐに迎えに行ってあげるから。……また、私を輝かせてね?」
狂気を含んだ声が、音のない屋敷に虚しく消えていった。
【第7話 完】
次回予告:第8話「欠けたピースの埋め合わせ」 実家の不穏な動きを知る由もないリアナは、学院で初めての「友人」たちと過ごしていた。 カイルの過去、そして寮の仲間たちが抱える傷。 自分を「器」ではなく「人間」として扱ってくれる人々のために、リアナの魔力は新たな色を帯び始める。
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