第6話:届かない呪縛
医務室の窓から差し込む午後の陽光は、皮肉なほど穏やかだった。 白いカーテンが風に揺れ、薬草のツンとした香りが鼻をくすぐる。演習場での暴走から一夜明け、私の体はひどく重く、泥の中に沈んでいるようだった。
「目が覚めたか」
枕元に、不愛想な声が落ちてきた。 カイルだ。彼は椅子を逆向きに跨ぎ、窓の外を眺めていたが、私が身じろぎすると鋭い視線を向けた。
「……カイル。ごめんなさい、私、また迷惑を……」 「謝るな。お前は昨日の測定器か何かなのか。壊れたら謝る、動かなければ謝る。見ていて癪に障る」
吐き捨てられた言葉は鋭かったが、彼は私の手元に温かいお茶の入ったカップを置いた。 その時、医務室の扉がノックされ、寮監が入ってきた。その手には、見覚えのある……あまりにも見覚えがありすぎて、心臓が凍りつくような「紋章」が押された封筒が握られていた。
「リアナ・エリス。お前の実家、公爵家からの急使だ。重要だと言うので、特別に許可が下りた」
寮監が手紙を置くと、私は反射的にカップを落としそうになった。 真っ白な封筒。金糸で縁取られた「エリス家」の紋章。それは私にとって、救いの手ではなく、首を絞める鎖そのものだった。
「……読みなよ。読まないと、いつまでも『それ』がお前を追いかけてくるぞ」
カイルの静かな、だが逃げ場を許さない声に促され、私は震える指先で封を切った。
『リアナ、お前がいなくなったせいで、ミシェルがひどい頭痛を訴えている。聖女の輝きが失われ、王宮からも懸念の声が上がっているのだ。お前の勝手な振る舞いが、どれほど一族の損失になっているか分かっているのか。 学院など今すぐ辞め、この手紙を読んだら即刻、迎えの馬車に乗れ。ミシェルに魔力を注げ。お前はただの貯蔵庫なのだから、空の果てで自分自身の人生があるなどと、分不相応な夢を見るな』
「あ……、あ……っ」
手紙を持つ指が、目に見えて白く震えた。 紙の端がガサガサと音を立てる。 文字が歪み、父の怒声が耳の奥で轟く。母の冷ややかな失笑が肌を刺す。 読み進めるうちに、医務室の温かな空気は消え去り、私はあの冷え切った石造りのダイニングに引き戻されていた。
「帰らなきゃ……。私が、私がいないとミシェルが……。お父様に、また怒られる。みんなに、迷惑をかけてしまう。私は、ただの道具なのに……」
呼吸が苦しい。喉の奥に、外したはずの『魔力循環の枷』の感触が蘇る。 実家の家族が、私の境界線を土足で踏み荒らし、再び心の中に侵入してくる感覚。
「おい。リアナ、こっちを見ろ」
カイルの声がしたが、私の意識は暗い地下室へと落ちていく。 その時、ガサリと音がして、私の手から「呪縛」が奪い取られた。
「あ……返して、それを読まないと、私は……!」
「読むなと言っている。こんなものはゴミだ」
カイルは私の手紙をひったくると、一瞥して鼻で笑った。 「……なんだこれは。聖女様が頭痛? 貯蔵庫? お前を人間扱いもしていない、ただの奴隷契約書じゃないか」
「でも、私の家族なんです! 私が行かないと、家が……!」
「家族?」 カイルが、凍りつくような冷たい声を出した。 彼は手紙を両手で掴むと、私の目の前で、迷いなく真っ二つに引き裂いた。
「あっ……!」
「見ろ。破れた。お前の『家』とやらは、紙一枚ほどの強度しかない。お前がここにいれば、あいつらの声はただの音だ。届きはしない」
カイルは、バラバラになった紙切れを床にぶちまけた。 そして、私の肩を力強く掴み、視線を無理やり合わせさせた。
「いいか、リアナ。ここは学院だ。学則によって、お前は守られている。あいつらはお前の部屋に入れない、お前の皿を取り上げられない、お前の首に鎖を嵌めることもできない」
「でも……私は……」
「お前には、拒絶する権利がある。……いいか、よく聞け。お前の体も、お前の魔力も、お前が食べるスープの温かさも、すべてはお前のものだ。他人に差し出す義務なんて、最初からない」
「拒絶……して、いいの……?」
私は、生まれて初めて聞く単語のように、その言葉をなぞった。 誰かに逆らうことは、死に等しい罪だと教えられてきた。 ミシェルのために身を削ることが、私の唯一の存在理由だと刻み込まれてきた。
「そうだ。嫌だと言え。入ってくるなと言え。ここは自分だけの場所だと、線を引け。……お前の『境界線』を、あいつらに越えさせるな。たとえ親であっても、お前の心に土足で入り込む奴は、ただの侵略者だ」
カイルの指から伝わる熱が、私の震えを少しずつ止めていく。 床に散らばった手紙の残骸。 さっきまで私を縛り付けていたはずの言葉は、破られた瞬間から、ただのインクの汚れに変わっていた。
「……嫌。……帰りたくない」
小さな、消え入りそうな声。 けれどそれは、私が生まれて初めて放った、自分のための意志だった。
「聞こえないな。もっとはっきり言え」
カイルが少しだけ、口角を上げた。
「帰りたくありません……。私、ここにいたいです。ここで、温かいスープを食べて……魔法を、勉強したい。あんな冷たい家に、もう、私の居場所なんてない……!」
叫んだ瞬間、胸の奥に溜まっていた「何か」が、すっと軽くなった。 涙が溢れたが、それは絶望の涙ではなく、自分を守るための、熱い涙だった。
「よく言った。……寮監、聞いたか?」
カイルが振り返ると、入り口で静かに様子を見ていた寮監が、手帳を閉じて頷いた。
「確かに。生徒リアナ・エリスの意志を確認した。学院は生徒の保護を最優先とする。実家へは『本人が修学継続を強く希望しており、戒律により面会も帰省も認められない』と、私から突き返しておこう」
「……いいんですか?」
「お前は、ここの生徒だ。公爵家の所有物ではない」
寮監はそう短く告げると、床の紙屑を魔法で一瞬にして灰に変え、部屋を出て行った。
医務室に、再び静寂が戻る。 窓から差し込む光が、私の手元を照らしていた。 手紙はもう、どこにもない。 呪縛の声は、空の果ての断崖に跳ね返され、ここまでは届かない。
「カイル……ありがとう」
「礼なんていい。……それより、さっきの茶、冷めちまったな。新しいのを取ってきてやる」
カイルは照れ隠しのように顔を背け、立ち上がった。 彼が歩くたびに鳴るブーツの音が、今はとても頼もしく聞こえる。
私は、自分の首筋に触れた。 痣はまだ消えないけれど、心の中に、誰にも壊せない「透明な壁」の基礎が築かれ始めたのを感じていた。 私はもう、自分を明け渡さない。 この空の果てで、私は私のための人生を、自分の手で守り抜くと決めた。
【第6話 完】
次回予告:第7話「歪んだ鏡(愛玩子の焦り)」 リアナが自立の第一歩を踏み出した一方で、実家のミシェルは極限状態に陥っていた。 「魔力が足りない、肌がボロボロよ!」 聖女としての虚像が剥がれ落ちていくミシェル。歪んだ家族の愛が、さらなる狂気を生み、リアナへの執着となって学院へ迫る。
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