第4話:温度のあるスープ

朝の鐘の音が、冷たい空気をつんざいて鳴り響いた。


床の上で丸まって眠っていた私は、その音に跳ね起き、反射的に首筋を押さえた。枷(かせ)はない。そこにあるのは、生々しい痣と、自分の肌の熱だけだ。 胃の奥が、雑巾を絞るように鳴った。空腹という感覚さえ、これまでは「不快なノイズ」として押し殺してきたけれど、今の私の体は切実に、生きるための燃料を求めていた。


おそるおそる部屋を出て、長い石造りの廊下を歩く。 漂ってきたのは、香ばしい小麦の匂いと、飴色に炒められた玉ねぎの、甘く深い香りだった。


「……っ」


その匂いだけで、頭がくらくらした。 たどり着いた食堂は、高い天井から柔らかな光が差し込み、多くの学生たちが思い思いの席に座っていた。 私は、列の最後尾に並ぶ。自分の番が来るのが、怖くてたまらなかった。 「お前の分はない」「パンの屑で十分だ」 そう言われる予行演習を、頭の中で何度も繰り返す。


「はい、次。三〇二号室のリアナだね。……おい、しっかり持ちなよ」


恰幅のいい食堂のおばさんが、私の前に白い陶器のボウルを置いた。 そこには、たっぷりのスープが満たされていた。


「あの……これは」 「は? 朝食だよ」 「……誰の、残り物でもないんですか? 毒や、下剤は……? 後で、高い代金を請求されたり……」


おばさんは呆れたように鼻で笑い、私の背中を軽く叩いた。 「変な子だね。あんたの学費には、このスープ代も含まれてる。冷めないうちにさっさと食べな。あんた、今にも倒れそうだよ」


震える手でトレイを持ち、一番隅の、目立たない席に座った。 目の前の一皿を、まじまじと見つめる。 オニオングラタンスープ。 こんがりと焼けたチーズが蓋をし、その下には飴色のスープが透けて見える。 湯気が顔を撫でる。それだけで、凍りついていた鼻の奥がツンと痛んだ。


木のスプーンを差し入れ、チーズを破る。 とろりと伸びる黄金色の層の下から、熱々のスープが顔を出した。 一口、口に含む。


「…………っ」


熱い。 最初に来たのは、圧倒的な「温度」だった。 実家で与えられていたのは、いつも脂の固まった冷淡なスープだった。誰かの機嫌を損ねないように、音を立てずに飲み込むだけの作業。


けれど、これは違う。 炒め抜かれた玉ねぎの凝縮された甘み。牛骨の深いコク。 そして、私の胃を、内臓を、指先を、じわじわと温めていく確かな栄養の熱。


「あ、う……」


喉の奥が、熱い。 飲み込もうとするたびに、胸のつかえが邪魔をする。 不意に、視界が滲んだ。 ポタリ、と。 一滴の涙が、琥珀色のスープに波紋を作った。


「これ……おいしい。おいしいです……」


一度溢れた涙は、もう止まらなかった。 誰にも奪われない。誰とも比べられない。 「ミシェルの方がもっといいものを食べている」と、惨めな気持ちにならなくていい。 ただの食事が、こんなにも私を肯定してくれるなんて。 生きていることを、許されているような気がした。


「……おい」


低く、ぶっきらぼうな声が隣から響いた。 びくりと肩を震わせ、私は慌てて袖で目を拭った。 見ると、隣の席で堅焼きのパンを無造作に齧っている少年がいた。 鋭い眼光。鍛えられた体躯。その立ち居振る舞いは、学生というより、戦場を知る騎士のそれだった。


「……そんなに美味いか、それ。毒でも盛られたような泣き方だな」


彼はカイルと名乗ることもなく、ただ私のスープと、私の泣き腫らした顔を交互に見た。


「すみません……。、お行儀が悪いですよね。でも、私……こんなに温かいものを、自分のために出してもらったのが、初めてで……」


「…………」


カイルはパンを噛み砕く手を止め、わずかに眉を寄せた。 彼は私の首筋に残る、隠しきれない黒い痣をじっと見つめている。


「……自分のため、か」


彼はフンと鼻を鳴らし、自分のトレイに乗っていた手付かずのリンゴを、私のトレイに転がしてきた。


「食えよ。泣いてる暇があるなら、肉にしろ。お前、今にも消えそうだぞ」


「え、でも、これはあなたの……」


「俺は硬いもんが好きなんだよ。……いいか、ここは学院だ。誰もお前の皿を覗き見たりしねえ。食った分だけ、お前の血になる。それだけだ」


カイルはそれ以上何も言わず、また黙々とパンを齧り始めた。 突き放すような物言い。けれどそこには、実家の家族が持っていたような「粘着質な悪意」が微塵もなかった。 ただそこにいる。それだけのことが、どれほど救いになるか。


「……ありがとうございます。いただきます」


私はもう一度、スプーンを持った。 スープはまだ、十分に温かかった。 涙で少しだけ塩っぱくなったけれど、人生で食べたどんな贅沢品よりも、それは私の心を満たしていった。


胃に落ちる熱が、私の輪郭(りんかく)を少しずつ、確かなものにしていく。 私はこの日、初めて「生きる」ということが、苦痛以外の何物かになり得ることを知った。


窓の外では、空の果ての青い光が、食堂の床を優しく照らしていた。


【第4話 完】


次回予告:第5話「暴走する才能」 少しずつ体力を取り戻してきたリアナ。 しかし、初めての魔法実習で「魔法を放つ」という行為に直面した時、彼女の中に刻まれたトラウマが牙を剥く。 抑え込まれていた膨大な魔力が、悲鳴となって溢れ出し……。


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