第3話:境界線への一歩

がたごとと揺れる馬車の振動が、私の痩せこけた体に絶え間ない鈍痛を与えていた。 数日間の旅路。御者は一度も私に声をかけず、ただ家畜を運ぶような無関心さで馬を走らせた。窓の外を流れる景色は、標高を上げるごとに険しさを増し、やがて雲が足元を流れる「空の果て」の断崖へと至る。


「……着いたぞ。降りとけ」


ぶっきらぼうな声とともに、粗末な鞄が地面に放り出された。 学院の門をくぐった瞬間、私は反射的に肩を竦め、首を縮めた。


「ひっ……」


身構えたのは、いつもの「衝撃」を予感したからだ。 罵声。冷たい視線。あるいは、不意に首を締め上げる呪具の拍動。 けれど、そこに広がっていたのは、耳が痛くなるほどの**「静寂」**だった。


冷たく澄んだ空気の匂い。遠くで鳴く鳥の声。 広い石畳の廊下ですれ違う学生たちは、私を一瞥(いちべつ)するだけで、誰も近づいてこない。私を「魔力の貯蔵庫」として値踏みする者も、私のパンを奪おうとする者もいない。


「新入生だな? 手続きは済んでいる。こっちへ来い。寮の部屋を案内する」


現れたのは、銀髪を厳格に結い上げた年配の寮監だった。彼女の視線は鋭かったが、そこには母のような蔑みも、父のような所有欲もなかった。ただ「生徒」を「生徒」として見る、平熱の視線。


「名前は」 「……リアナ。リアナ・エリスです」 「そうか。お前の部屋は三階の三〇二号室だ。ここが鍵だ。紛失するなよ」


手渡された真鍮の鍵。その冷たい重みが、妙に現実味を帯びて掌に食い込んだ。 長い廊下を歩き、重い木扉を開ける。


「…………え?」


そこは、屋敷の私の部屋――窓すらない物置部屋――よりもずっと狭かった。 けれど、そこには「奇跡」のような光景が広がっていた。


真っ白なシーツが整えられた、一人用のベッド。 使い込まれているが、磨き上げられた自分専用の机。 小さな窓からは、夕焼けに染まる雲海が見えた。


「ここは……私の部屋、なんですか?」 「当たり前だろう。ここは女子寮だ。お前以外の誰も入ることはない。清掃や点検以外、教職員であっても許可なく立ち入ることは禁じられている」


寮監の言葉に、私は息を呑んだ。 「お前以外の誰も入らない」。 その言葉の響きが、どれほど暴力的に美しく、恐ろしかったか。


「あの、ミシェル……妹は、来ませんか? 父や母も、急に入ってきたりは……」 「何を言っている。ここは学院だぞ。外部の人間を招き入れるなど、校則違反だ。たとえ家族であってもな。……顔色が悪いな。今日はもう休み、明朝の鐘が鳴ったら食堂へ来い」


寮監が去り、扉が閉まる。 カチリ、と内側から鍵をかけた。


静かだった。 自分の心臓の音だけが聞こえる。 私はふらふらと、部屋の真ん中に立ち尽くした。


「……誰も、来ない」


私は壁を背にし、ずるずると床にへたり込んだ。 ベッドがあるのに、そこに行くのが怖かった。自分だけのために用意された贅沢な場所を汚してはいけないという強迫観念と、ここにいて本当に「安全」なのかという疑念が、ぐるぐると頭を回る。


私は膝を抱え、部屋の隅で丸まった。 ここなら、背後から襲われることはない。 ここなら、眠っている間に魔力を吸い尽くされることもない。


「……私の、場所」


震える手で、自分の腕を抱きしめる。 首筋の痣が、枷がなくなったせいで妙にヒリついた。 空気の味が違う。 これまでは常に、誰かの機嫌を窺うための「色」が混ざった空気を吸っていた気がする。けれど、この部屋の空気は無色透明で、少しだけ木の香りがした。


「本当に、一人なんだ……」


涙が溢れた。悲しいからではない。 「自分だけの領域(パーソナルスペース)」というものがこの世に存在することを知り、その圧倒的な清潔さに、心が耐えきれなかったのだ。


一歩、また一歩と、侵食されていた私の魂が、自分の輪郭を取り戻そうとしていた。 他人の感情にさらされ続け、透明な器にされていた私の中に、初めて「私」という静かな熱が溜まり始める。


私は床に顔を伏せ、声を殺して泣いた。 誰にも見られない。誰にも叱られない。 そう確信した瞬間、極度の緊張が解け、泥のような眠気が襲ってきた。


部屋の隅、冷たい床の上。 けれどそこは、私の人生で初めて手に入れた「誰にも侵されない聖域」だった。 私は、震えながら、けれど確かな安堵の中で、夢のない深い眠りへと落ちていった。


窓の外では、空の果ての星々が、静かに光り始めていた。


【第3話 完】


次回予告:第4話「初めての『美味しい』」 翌朝、空腹の限界で食堂へ向かったリアナ。 そこで彼女を待っていたのは、人生で初めての「自分だけの温かい一皿」だった。 そして隣の席には、不愛想な元騎士の少年・カイルの姿が。


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