第2章-1 壊れない距離だと、互いに信じていた夜

境界線は、

越えた瞬間に壊れるものじゃない。


守っているつもりの距離が、

少しずつ近づき、

元に戻れなくなったときに、

ようやく名前を持つ。


あの夜は、

まだ何も始まっていなかった。

だからこそ、

何も起きなかったとは

言えなくなっていた。


__


境界線は、まだ夜にあった


夜は、何度も同じ形でやって来る。

少なくとも、俺にはそう見えていた。


街灯の位置も、

人が足を止める場所も、

風の抜け方も、

大きくは変わらない。


変わるのは、人だけだ。

そして人は、変わったことを

自分より先に知っているとは限らない。



萌々花といる夜は、静かだった。


特別な話はしない。

今日あった小さな出来事。

どうでもいいこと。

言葉にしなくてもいい沈黙。


それらが、無理なく並んでいた。


近すぎない。

でも、遠くもない。


触れない距離。

それで成立してしまう関係。


俺は、それを

「安全な距離」だと思っていた。


守っているつもりだったし、

守られているつもりでもあった。



萌々花は、夜に馴染んでいた。


迷いも、探る様子もない。

まるで「ここにいていい」と

最初から知っているみたいに。


「こんばんは」


その声を聞くだけで、

夜の空気が一段落ち着く。


俺が軽く頷くと、

彼女は少し安心したように笑った。


その笑顔を見るたび、

胸の奥が静かになる。


理由は、考えなかった。



一緒にいる時間は、穏やかだった。


沈黙は、気まずくならない。

むしろ、心地いい。


目が合えば、自然に笑う。

それだけで会話が成立する。


萌々花は、

無理に近づいてこないし、

無理に離れもしない。


その立ち位置が、

俺にはちょうどよかった。



俺はこの関係を、

「家族枠の距離」だと呼んでいた。


守る側と、守られている側。

頼りすぎない。

踏み込みすぎない。


萌々花も、

それで安心しているように見えた。


夜は、休む場所だ。

立ち止まる場所であって、

何かを決める場所じゃない。


だから、この夜は安全だった。



「今日も、変わらないですね」


萌々花は、そう言って笑った。


確認でも、評価でもない。

ただの事実の共有。


俺は、それに頷いた。


変わらない、という言葉が

こんなにも優しいものだとは、

思っていなかった。



夜は、人を癒す。


それは確かだ。

深くしすぎなければ。


俺は、その線を

ちゃんと引けているつもりだった。


萌々花も、

その線の上で楽しそうにしていた。


だから、この夜は続く。


始まらないまま。

壊れないまま。



ただ――

今になって思う。


その「変わらなさ」は、

本当に止まっていたのだろうか。


俺が動かないことで、

相手の感情も

動かないと思い込んでいただけじゃなかったのか。



あの頃の俺は、

まだ知らなかった。


夜が、

感情を凍らせる場所ではないことを。


選ばなかった言葉も、

置いたままの覚悟も、

夜の底で静かに重なっていくことを。



境界線は、

まだ夜の中にあった。


少なくとも、

俺にはそう見えていた。


――このときの俺は、

その線が

すでに別の場所で引き直されていたことを、

まだ何ひとつ疑っていなかった。

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2026年1月12日 21:00
2026年1月13日 21:00
2026年1月15日 21:00

境界線は、夜を越えて ――近づいてしまった二人の、戻れなかった距離 夜浩 @yahiro_2025

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