第1章-1.5 それでも、受け取っていた言葉

あの言葉を、

私は聞き逃したわけじゃない。


むしろ、

ちゃんと受け取ってしまった。



「萌々花ちゃん。

君は、独りじゃない」


夜の空気に溶けるみたいに、

低くて、静かな声だった。


なのに、

胸の奥にだけ、はっきり残った。



「……えっ?」


最初は、

意味を確かめるために聞き返した。


拒むつもりなんて、なかった。

驚いたけれど、怖くはなかった。


ただ、

思っていたよりもずっと近いところに、

その言葉が置かれた気がして。



彼はもう一度、言った。


「一緒に、不安を持てる。

でも、今すぐ何かを変えたいわけじゃない」



「……えっ?」


今度は、

本当に驚いてしまった。


進める言葉でもなく、

止める言葉でもない。


ただ、

私の隣に立つ覚悟だけが、

先に示されていた。



どうこうなりたいわけじゃない。

答えを出させるつもりもない。


それでも、

「独りじゃない」とだけは言う。


その優しさが、

胸の奥に、静かに染みてきた。



私は、

嬉しかった。


正直に言えば、

とても嬉しかった。


胸のあたりが少し軽くなって、

呼吸が楽になった。


ああ、

ちゃんと見てもらえてたんだって。



だから、笑った。


「……はい 😊」


それは、

受け取ったから出た笑顔だった。


受け流すためでも、

場を丸くするためでもない。


ちゃんと届いたから、笑った。



一緒にいたかった。


この人の隣で、

もう少しだけ、

この時間を続けたかった。


それも、

嘘じゃない。



でも同時に、

分かってしまった。


この人の隣に立ったら、

私は戻れなくなる。



彼は、立てる人だった。


迷いながらでも、

覚悟を置いて立つ人だった。


一緒に立つ場所を選び、

そこに留まる責任を

引き受けられる人だった。



私は違う。


安心すればするほど、

頼りたくなる。


優しさに触れるほど、

寄りかかってしまう。


それが愛なのか、

依存なのか。


その境界線を、

私はまだ持てなかった。



だから、

その場では受け取った。


でも、

その先に立つ勇気はなかった。



彼が踏み込まなかったのは、

冷たかったからじゃない。


優しかったからだ。


私が立てないことを、

きっと、分かっていたから。



もし、

あのまま隣に立っていたら。


私は彼の時間に、

彼の覚悟に、

追いつけないまま、

しがみついてしまったと思う。



だから私は、

壊れない方を選んだ。


彼を嫌いにならない選択をした。

彼を消費しない距離を選んだ。


好きなまま、

離れる選択をした。



連絡を送るとき、

何度も文章を書き直した。


感謝だけを残して、

余計な感情を削った。


揺り戻しが起きないように。



彼は、

きっと自分を責める。


踏み込んだから壊れた、

そう思うだろう。


でも、違う。


夜浩さんが気づいてくれて、

言葉にしてくれて、

本当は――

すごく嬉しかった。


冗談みたいに聞き返したのも、

笑ってしまったのも、

全部、誤魔化しだった。



あの瞬間、

私は確かに、

「独りじゃない」と思えた。


それは、救いだった。

間違いなく。


ただ、

その嬉しさを、

毎日の現実として抱え続ける覚悟が、

私にはまだ足りなかった。



隣に立ちたい気持ちはあった。

一緒にいたい時間も、確かにあった。


それでも私は、立たなかった。


壊れない方を選んだ。

彼を削らない距離を選んだ。


夜浩さんが間違っていたわけじゃない。

優しさが足りなかったわけでもない。


ただ、

私の準備が追いつかなかっただけだ。



それでも――

あの夜に、

言葉が届いたことだけは、

今も胸に残っている。

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