第1章-1 夜に立つ者は、歌を信じてはいけない ――選ばれなかった恋と、静かな別れの物語

夜は、俺の居場所だった。

正確に言えば、俺は夜に立つ側の人間だった。


長く生きすぎた俺は、

人の世界に深く関わらないことを選んできた。

近づけば、壊れる。

壊れると知っているから、距離を測る。

それが、夜に立つ者の流儀だった。


――少なくとも、

彼女に出会うまでは。



萌々花は、夜に迷い込んできた。


迷子ではなかった。

昼の世界で息ができなくなり、

静かに立てる場所を探していただけだった。


初めて目が合ったとき、

彼女は少し驚いて、

それから、ほっとしたように笑った。


助けを求める顔ではなかった。

頼ろうとする目でもなかった。


それなのに、

その笑顔がなぜか胸に残った。


恐れてはいなかった。

それが、最初の誤算だった。



一緒にいる時間は、穏やかだった。


特別なことは何もない。

意味のある話も、決定的な言葉もない。

言葉が途切れても、沈黙は重くならない。


目が合えば、自然に笑う。

どちらからともなく、少しだけ距離が縮まる。


それでも、触れない。

触れなくても、成立してしまう関係だった。


このまま続けば、

何も始まらない代わりに、

誰も壊れない――

そんな錯覚が、確かにあった。



彼女は、歌った。


誰かに向けた歌じゃない。

言葉にすれば壊れてしまう感情を、

旋律の奥に沈めた歌だった。


「愛されたい」


その言葉は、歌詞にはなかった。

けれど、すべての音に滲んでいた。


日常では、ちゃんと笑っているのに。

歌の中では、耐えている。


俺は、気づいてしまった。


夜に立つ者は、

人の感情に耳を傾けすぎてはいけない。


それでも俺は、

聞いてしまった。



不安を、半分だけでも持てたら。

そう思った。


全部を背負うつもりはなかった。

未来を引き受けるつもりもなかった。


ただ、

一人で耐え続ける状態を、

これ以上、続けさせたくなかった。


だから――

一度だけ、言葉にした。



「一度だけ、言葉にする」


そう前置いて、俺は続けた。


「萌々花ちゃん。

君は、独りじゃない」


彼女は、笑顔で聞き返した。


「……えっ?」


拒む色はなかった。

だから、もう一度言った。


「一緒に、不安を持てる。

でも、今すぐ何かを変えたいわけじゃない」


今度は、目を見開いた。


「……えっ?」


驚いた顔だった。

俺は慌てて付け足す。


「どうこうなりたい、って話じゃない。

ただ、独りじゃないってことだけ」


少し間があって、

彼女はまた、笑った。


「……はい 😊」


その笑顔を見て、

俺は思ってしまった。


――受け取られた、と。


少なくとも、

拒まれたとは思えなかった。


だから俺は、

それ以上、踏み込まなかった。


未来を押し付けない。

関係を変えない。

夜のまま、立ち続ける。


それが、

彼女を守る判断だと信じた。


けれど今なら、

もう一つの可能性も見えている。


あの笑顔は、

逃げるためのものじゃなかったのかもしれない。


俺を軽く扱わないために、

俺を削らないために、

選ばれた距離だったのかもしれない。


それでも――

そのときの俺には、

まだ確信までは持てなかった。



あの夜が、

始まりだったのか。

それとも、

すでに終わりへ向かっていたのか。


その答えを、

俺はまだ、はっきりとは知らない。

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