第8話 シングルベッド(定員2名)
風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かして自室に戻る頃には、時計の針は深夜十一時を回っていた。
長い、長すぎる一日だった。
体感時間では、もう三日くらい戦い続けている気がする。
「……で」
俺はドアノブに手をかけたまま、自室の光景にフリーズした。
シングルベッドのド真ん中に、銀色の発光体が鎮座していたからだ。
「お帰り、ダーリン。遅かったね」
ヴェルは、ぺたんと女の子座りをして、俺を迎えた。
その格好が、問題だった。
彼女が着ているのは、俺のタンスから勝手に引っ張り出したであろう、ヨレヨレのグレーのTシャツだ。
俺(身長一七五センチ)のサイズだから、小柄な彼女が着ると、完全にワンピース状態になっている。
「……おい。なんだその格好は」
「ん? パジャマ持ってなかったから借りたよ」
ヴェルは悪びれもせず、Tシャツの裾をパタパタさせた。
その動作に合わせて、裾から白い太ももがチラリ、チラリと見え隠れする。
健康的なのに艶めかしい、絶妙な肉付き。
さらに悪いことに、首元がダルダルだ。
彼女が少し動くたびに、華奢な鎖骨と、その奥にある白い肌の谷間が無防備に晒される。
風呂上がりの火照った肌が、微かにピンク色を帯びていて、目に毒すぎる。
「なんで俺のを着るんだよ……妹に借りればよかっただろ」
「やだ。キミの匂いがしないと落ち着かない」
彼女はTシャツの襟元を持ち上げると、そこに顔を埋めて「すぅーっ」と深く息を吸い込んだ。
「ん……いい匂い。安物の洗剤と、君の汗の匂いが混ざって、脳みそが痺れる……」
「変態かお前は! やめろ、恥ずかしいから!」
自分の古着を美少女に深呼吸されるという、高度すぎる羞恥プレイ。
俺は顔を真っ赤にして、彼女の腕を掴んだ。
「出てけ! 客用布団があるだろ! そっちで寝ろ!」
「えー? 一緒に寝るんでしょ? 許嫁なのに?」
「形だけだっつっただろ! 俺は絶対に、お前と同じベッドでは寝ないぞ!」
これは生存戦略だ。
この「彼シャツ」状態の美少女と密室で一夜を過ごせば、俺の理性は間違いなく消し飛ぶ。
俺はヴェルをベッドから引き剥がし、背中を押して廊下へ出した。
「妹の部屋に行け! あいつのベッドなら空いてるスペースあるから!」
「むー。ダーリンのケチ」
俺はヴェルを連れて、廊下の突き当たりにある妹の部屋の前まで移動した。
深夜だが、まだ起きているはずだ。
俺は救いを求めるようにノックをした。
コンコン。
ガチャリ。
ドアが少しだけ開き、隙間から妹のジト目が覗いた。
「……何? うるさいんだけど」
「頼む! 今日一日だけでいい、ヴェルさんを泊めてやってくれ!」
俺は必死に頼み込んだ。
背後のヴェルは「ちぇっ」と舌を出している。
妹は、Tシャツ一枚のヴェルと、必死な形相の俺を交互に見た。
そして、鼻で笑った。
「お兄ちゃん」
「な、なんだ」
「『据え膳食わぬは男の恥』……的な?」
「は?」
バタンッ!!
ガチャリ(施錠音)。
「お、おい! 開けろ! 見捨てるな! 家族だろ俺たち!!」
無慈悲な拒絶。
妹よ、お前も洗脳の影響で倫理観がバグっているのか、それとも単に兄の不幸が面白いだけなのか。
廊下に、俺の虚しい叫びだけが木霊した。
◇
結局、俺はヴェルを自室に連れ戻すしかなかった。
「……はぁ。分かったよ。ここで寝ればいいんだろ」
俺は諦めて電気を消した。
部屋が闇に包まれ、窓から差し込む月明かりだけが、ベッドの上の銀髪を照らし出す。
「ただし!」
俺はベッドに潜り込みながら、厳重に釘を刺した。
「何もしないからな! 健全に寝るだけだぞ! 手を出したら即退場、これ絶対!」
「はいはーい」
ヴェルは素直に頷き、ゴロゴロと転がって壁側に寄ってくれた。
俺も反対側の端に寄り、背中を向けて横になる。
狭い。
シングルのベッドに大人二人。どうしても背中が触れ合う。
背越しに伝わる彼女の体温。柔らかい感触。
そして、耳元で聞こえる寝息。
(……寝れるわけないだろ、こんなの)
俺は心臓の早鐘を誤魔化すように、ぎゅっと目を閉じた。
無だ。無になれ。俺は修行僧だ。隣にいるのはジャガイモだ。
そう自己暗示をかけていた、その時だった。
ガサッ。
背後のシーツが擦れる音。
次の瞬間、俺の腰の上に、柔らかい重みが乗った。
「――っ!?」
目を開けると、俺の上にヴェルが馬乗りになっていた。
逆光で表情は見えないが、赤く光る瞳だけが、暗闇の中で妖しく揺らめいている。
「ダーリン……」
甘く、濡れた声。
彼女の上半身がゆっくりと沈み込んでくる。
Tシャツの襟元から覗く白い肌が、月光を反射して眩しい。
「……寝れないの? ボクも」
「お、お前……!」
「ねえ、しよっか。夜這い」
彼女の手が、俺の胸板を這い上がり、Tシャツの中に侵入してくる。
冷たい指先が乳首を掠め、背筋に電流のような戦慄が走った。
ヤバい。
本気だ。こいつ、このまま既成事実を作る気だ。
俺の本能が「受け入れろ」と叫び、理性が「まだ早い」と警鐘を鳴らす。
「……正座ァッ!!」
俺は反射的に叫び、ヴェルの脇腹を掴んで持ち上げ、ベッドの横の床に降ろした。
「え?」
「正座だ! いますぐそこで正座しろ!」
「な、なんで……」
「いいから座れ!」
俺の剣幕に押されたのか、ヴェルは渋々といった様子で、フローリングの上にちょこんと正座した。
Tシャツの裾が乱れて、パンツが見えそうになっているが、今は直視しない。
「いいかヴェル。お前は日本の文化を勘違いしてる!」
「夜這い、文化じゃないの?」
「違う! いや昔はあったかもしれないけど、現代では犯罪スレスレだ!」
「でもダーリン、ドキドキしてたよ? 心拍数上がってたし...それにs」
「それは……男だから仕方ないだろ!」
俺はベッドの上から、説教を開始した。
「だいたいな、その呼び方もやめろ! 『ダーリン』って!」
「え? なんで?」
「恥ずかしいからだ! 明日から外に出るんだぞ? 誰かに聞かれたら社会的に死ぬ!」
ヴェルはきょとんとして、小首を傾げた。
「えー? じゃあなんて呼べばいいの? 『ご主人様』?」
「悪化してるわ。……普通に名前でいいだろ」
「名前?」
ヴェルは俺の顔をじっと見つめた。
その赤眼が、妖しく揺らぐ。
「……透」
「っ、」
不意に名前を呼ばれて、俺の心臓が跳ねた。
さっきまでの甘ったるい声ではない。
低く、確かめるような、それでいて所有印を焼き付けるような響き。
「透。透、透……」
「な、何度も呼ぶな」
「ん、いい音。この星の言葉で一番好きかも」
彼女は嬉しそうに目を細め、自分の唇を指先でなぞった。
「分かった。これからは『透』って呼ぶね。その方が、魂に直接触れてる感じで興奮するし」
(こいつに名前教えてよかったのか...?)
「……理由はともかく、それで頼む」
俺は顔が熱くなるのを誤魔化すように、布団を被り直した。
「ダーリン」と呼ばれるより、名前で呼ばれる方が妙に照れくさいのは誤算だった。
「もう、今日は寝るぞ。次やったら本当に追い出すからな」
「はーい……。チェッ、透のケチ」
ヴェルは不満げに立ち上がると、再びベッドに潜り込んできた。
今度は大人しく、俺の背中にくっつくだけに留めている。
俺は再び背中を向けて、大きく息を吐いた。
(……危なかった)
心臓がまだバクバク言っている。
怒鳴り散らして追い払ったが、正直に言えば。
あと五秒、彼女の指先が動いていたら。
あと数センチ、顔が近づいていたら。
俺は抵抗をやめて、彼女を受け入れていたかもしれない。
(……やぶさかではない、のが怖いんだよな……)
俺は自分の弱さを噛み締めながら、布団を頭まで被った。
それから、三十分ほど経っただろうか。
背後の呼吸が、規則正しい寝息に変わった頃。
俺の背中に、コツンと何かが押し付けられた。
ヴェルの額だ。
「……透」
寝言のような、消え入りそうな囁き。
「……やっと、見つけた」
その声には、普段のふざけた調子は微塵もなかった。
何万光年もの孤独と、それを埋める熱量。
重く、切実な響きが、背中越しに俺の心臓を震わせた。
「……もう、離さないから」
彼女の腕が、俺の腰に回される。
Tシャツを握りしめる力が、痛いくらいに強くなる。
それは、獲物を捕らえる爪ではなく、何かに怯える子供が縋り付くような弱々しさだった。
(…………)
俺は狸寝入りを決め込んだまま、動けなかった。
こんな声を聞かされて、邪険にできるわけがない。
俺は溜息を飲み込み、腰に回された彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。
彼女の身体がビクリと震え、それから、安堵したように力が抜けた。
(ま、いいか……今日は……)
俺の思考はそこで溶けた。
チュパカブラ(?)との死闘、精神的な疲労、そして背中の温もり。
それらが混ざり合い、泥のような睡魔となって俺を引きずり込む。
背中から伝わるヴェルの体温は、悔しいほど心地よかった。
カイロのように温かく、なぜか懐かしい安心感がある。
俺は奇妙な充足感に包まれながら、意識を手放した。
――背後の少女が、赤く染まった顔でニヤリと笑い、俺の指に自分の指を絡ませたことになど、気づかずに。
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事なかれ主義の俺が、掃除用具片手に路地裏で銀河最強の「王子様(?)」に拾われる @johukku
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