第4話 兎と狼

翌朝。

 俺は身体中の節々の痛みと共に目を覚ました。

 特に背中。あのお姫様抱っこのせいで、変な力が入っていたらしい。

​ リビングに降りると、ダイニングテーブルの上に残骸が鎮座していた。

 へし折れた『クイックルワイパー』の柄と、見るも無惨にひしゃげた『コロコロ』のプラスチックケースだ。

​「ねえ、お兄ちゃん」

​ トーストをかじっていた妹が、ジト目で俺を見た。

 高校生の妹は、我が家で一番のカースト上位者だ。

​「昨日の夜、何と戦ったの? 熊?」

「……いや、ちょっと黒カビとな」

「カビ相手にどうやったらワイパーが『くの字』に曲がるわけ? バカなの?」

​ 妹は呆れてスマホに視線を戻した。

 俺は折れたワイパーをゴミ袋に突っ込みながら、現実を再確認する。

​ 夢じゃなかった。

 あの怪物も、銀髪の王子様も、全部現実だ。

​ ……だとしたら、今日あたり大学に乗り込んでくるんじゃないか?

 「認識阻害」だの「洗脳」だのと言っていたし、教室のドアを開けたら、あの銀色が我が物顔で座っているかもしれない。

​ 俺は胃薬を飲んで、大学へ向かった。

​◇

​ 結論から言うと、何も起きなかった。

​ 一限目の英語。いない。

 昼休みの学食。いない。

 午後の演習。やはり、いない。

​ 大学構内をどれだけ警戒して歩いても、あの目立つ銀髪は見当たらないし、周囲の学生が騒いでいる様子もない。

​「……あれ?」

​ 帰りのホームルームを終え、俺は首を傾げた。

 来ないのか?

 昨日のあの執着ぶりなら、ストーカー紛いのことでも平気でしそうだったのに。

​(『ボクが行くと、君が嫌な顔しそうだからやめたよ』)

​ ふと、脳内にそんな言い訳が浮かんだ。

 まさかな。あいつにそんな殊勝な配慮ができるわけがない。あの倫理観の欠如した王子様だぞ?

​ じゃあ、なんだ。

 やっぱり夢だったのか?

 ワイパーが折れていたのは、単に俺が転んだ拍子に壊しただけで、怪物も美少女も、バイト疲れが見せた幻覚だったんじゃ……。

​「……ま、いいか」

​ 平和ならそれでいい。

 俺は伸びをして、重かった肩の荷を下ろした。

 なんだ、ビビって損した。今日は帰って、新しいワイパーを買いに行こう。

​ そんな完全な油断と共に、俺は最寄り駅の改札を抜けた。

​◇

​ 夕方の駅前ロータリー。

 通勤通学の客でごった返す、いつもの光景。

​ そのど真ん中に、「異物」が混じっていた。

​ 人の流れを真っ二つに割るように、そいつは立っていた。

 昨日のパーカーに、ダメージジーンズ。

 ポケットに手を突っ込み、両足を踏ん張って立つその姿は、まるで神社の仁王像か、あるいは伝説の不良漫画のキャラか。

 堂々たる「仁王立ち」だ。

​ 夕陽を反射してギラギラと輝く銀髪。

 道行く人々が「うわ、なんだあの美形」「芸能人?」と振り返り、遠巻きに避けていく。

 だが、当の本人は周囲の視線など意に介さず、爬虫類のような鋭い瞳で、改札から出てくる人間を一人ひとりガン見していた。

​「…………」

​ 俺は改札を出て三歩で硬直した。

 幻覚じゃなかった。

 しかも、大学に来なかったのは配慮でもなんでもなく、単に「家(最寄り)で待ち伏せした方が確実」という、合理的かつハンター的な判断だったらしい。

​ 逃げよう。

​ 俺は無言で回れ右をした。

 改札の中へ戻る。そして反対口からタクシーで帰る。それが最適解だ。

​ だが。

​「あ」

​ 背後で、嬉々とした声が聞こえた。

 見つかった。

​ 俺はダッシュした。

 なりふり構わず、定期券を改札に叩きつけようとする――が、遅い。

​ ドスッ!!

​「ぐえっ!?」

​ 背後から、新幹線が追突してきたような衝撃。

 俺の身体が浮いた。

 改札の目の前で、俺は背後からガバッと抱きすくめられていた。

​「捕まえた」

​ 耳元で、鈴を転がしたような声が響く。

 パーカー越しに伝わる体温と、柔らかい感触。

 そして何より、駅前の衆人環視の中で抱きつかれているという、公開処刑の恥ずかしさ。

​「は、離せ! 人が見てるだろ!」

「見ればいいよ。君がボクのものだって、周知されるだけだし」

​ 彼女は、悪びれもせず俺の背中に顔を擦り付けた。

 そして、抵抗する俺の耳朶を甘噛みするような距離で、ネットリと囁いた。

​「おとなしくしててよ、ダーリン」

「……迎えに来ちゃった❤」

​ ハートマークが見えた。幻覚じゃなく、確かに見えた。

 その声に含まれる湿度は、昨夜よりも遥かに高くなっていた。

 俺の平穏な日常は、この駅前ロータリーで完全に死亡した。

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