第3話 これは夢だ。きっと夢なんだ!

「……えっと、飼い主って何?」

​ 俺は思考の混乱を抑え込みながら、努めて冷静に問いかけた。

 目の前の銀髪の美少女――自称「ボク」っ娘の王子様――は、俺を抱きしめたまま目を細めている。

​「言葉通りの意味、君はもうボクのだよ。」

「返す気はないから。」

​ さらっと恐ろしいことを言われた気がする。

 だが、俺には「事なかれ主義」という長年培った防衛本能がある。ここで流されてはいけない。

​「いや、無理だ」

「ん? どうして?」

「俺、実家暮らしなんだよ」

​ 俺は最強のカードを切った。

 そう、大学生とはいえ、俺は親の脛をかじる身。

 アパートでの一人暮らしならまだしも(いやそれでも無理だが)、厳格な両親が住む家に、こんな出所不明の美少女を連れ帰れるわけがない。

​「親の目は誤魔化せないぞ。門限もうるさいし、知らない人がいたら即通報だ」

「ふうん、両親……君の生物学的な製造元か」

​ 彼女はきょとんとして、それから悪戯っぽく笑った。

​「なんだ、そんなこと? 問題ないよ」

「問題大ありだろ」

「認識(認知)を書き換えればいいだけだし」

​「は?」

​「『最初からそういう同居人がいた』って脳の回路をちょっとイジるだけ。簡単だよ? 今からやってあげようか?」

「やめろ! 犯罪だろそれ!?」

​ 倫理観が欠如している。

 こいつ、息をするように洗脳を提案してきやがった。

​「……はぁ、とにかく今は無理だ。帰してくれ」

​ 俺がため息をつくと、緊張の糸が切れたのか、急に膝から力が抜けた。

​「あ、っと……」

​ ガクッ、と身体が沈む。

 腰が抜けている。情けないことに、自力で立つことすらままならない。

 地面に倒れ込みそうになった俺を、しかし、細い腕が受け止めた。

​「おっと。危ないな、ダーリンは」

​ フワッ、と視界が高くなる。

 背中と膝裏に腕を回され、俺の身体は軽々と宙に浮いていた。

​「……はい?」

​ 状況を理解するのに数秒かかった。

 俺は今、身長一五〇センチそこそこの小柄な少女に、「お姫様抱っこ」をされていた。

​「ちょ、おま、ふざけんな! 降ろせ!」

「暴れないで。舌噛むよ?」

​ 男としての尊厳に関わる事態に俺は抵抗しようとしたが、彼女の腕は鋼鉄のようにビクともしない。

 彼女は散らばった掃除用具(コロコロとワイパー)を器用に回収し、俺を抱えたまま涼しい顔で歩き出した。

​「出口まで送るよ。ここ、空気が悪いから」

​ 路地裏を、銀髪の王子様が、カビ取り剤臭い俺を抱えて歩く。

 シュールすぎる。

 だが、俺の心臓がうるさく鳴っているのは、恥ずかしさのせいだけではなかった。

 至近距離にある彼女の横顔が、悔しいほど綺麗だったからだ。

​ 路地の出口が見えてくる。

 大通りの街灯が、結界の境界線を照らしていた。

​ 彼女は境界の手前で立ち止まり、名残惜しそうに俺を降ろした。

​「……ここまでだね」

「外までは出ないのか?」

「うん。ちょっとまだ、やる事が残ってるから」

​ 彼女は背後の闇――怪物の死骸が転がる路地裏――を親指で示した。

 詳しくは言わないが、このまま外に出られない事情があるらしい。

​「じゃあな。助かったよ」

​ 俺は掃除用具を受け取り、逃げるように背を向けた。

 これ以上関わったら、俺の「平穏」が死ぬ。

 そう直感したからだ。

​ だが。

​「ねえ、君」

​ 背後から呼び止められた。

 振り返った瞬間。

​ トン、と。

 彼女の指先が、俺の左胸――心臓の上あたりを突いた。

​ 

​「うぐっ!?」

​ 物理的な衝撃ではない。

 熱い楔を打ち込まれたような、痺れる感覚が心臓を貫いた。

 思わず胸を押さえてうずくまる俺に、彼女は妖艶に微笑んだ。

​「僕から愛しのダーリンへのプレゼントだよ♥️」

「な、なにを……」

「寂しくなったら呼んでよ、ダーリン」

​ 彼女は俺の耳元に唇を寄せ、甘い呪いを囁く。

​「呼ばなくても、すぐに君のもとへ行くけどね」

​(……おい、それ絶対呪いだろ)

​ 俺の心の中のツッコミなど意に介さず、彼女はヒラヒラと手を振って闇の中へ消えていった。

​◇

​ 路地裏を出ると、そこは現実だった。

 車の走行音。湿った夜風。

 スマホを見ると、時刻は深夜一時を回っている。

​「……やっべ」

​ 俺は青ざめた。

 怪物の恐怖も、美少女との遭遇も、すべて吹き飛ぶ現実的な恐怖。

 門限破りだ。

​ 俺は濡れた服のまま、全力で走った。

 実家の玄関を、音を立てないようにそーっと開ける。

 忍び足で廊下を渡り、自室へ逃げ込もうとした、その時。

​ パチッ。

​ リビングの電気がついた。

 腕組みをした父親と、眉を吊り上げた母親が、仁王立ちで待ち構えていた。

​「透!!」

​ 雷が落ちた。

​「今何時だと思ってるんだ! バイトは九時に終わるはずだろう!」

「連絡も寄越さないで! 電話も繋がらないし、どれだけ心配したと思ってるの!」

​「いや、その、ちょっとトラブルがあって……」

「トラブル? まさかまた単位の話じゃないでしょうね?」

「前期にあれだけ言ったのに、まさか留年なんてことになったら……!」

​「ちが、そうじゃなくて!」

​ 怪物に襲われて、銀髪の美少女にお姫様抱っこされて、心臓にマーキングされたんです。

 ……なんて、言えるわけがない。

​ 結局、俺は玄関先で一時間近く正座させられ、こってりと絞られた。

 路地裏での命がけの逃走劇よりも、親父の説教の方が胃に穴が空きそうだった。

​ 解放されて自室のベッドに倒れ込んだのは、空が白み始めた頃。

​「……なんだよ、今日」

​ 最悪の一日だ。

 俺は枕に顔を埋める。

 だが、目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた銀色がチラついて離れない。

​ 左胸の奥が、まだ熱を持ったようにじんじんと疼いていた。

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