完結記念の特別編(魔王が視察に来る話)

――不吉な、あまりにも不吉な地鳴りだった。


 空は突如として紫黒の雲に覆われ、吹き付ける風はナイフのように冷たく鋭い。  奈落の口ダンジョンの入り口。いつもなら醤油と脂の香ばしい匂いが漂うはずのその場所に、かつてない絶望の気配が立ち込めていた。


「――愚かな。実に愚かなことだ」


 漆黒の霧を切り裂いて現れたのは、身の丈を超える巨大な角と、マントのように翻る四枚の翼。魔界の頂点に君臨し、数多の国を恐怖で震え上がらせてきた存在――魔王サタナスその人であった。


「我が一軍を率いる精鋭オークたちが帰らぬと思えば、ダンジョンマスターまでもが音信不通。調査に来てみれば……貴様ら、これは何の茶番だッ!」


 魔王の咆哮に、並んでいた冒険者たちは腰を抜かして這いつくばる。だが、カウンターの奥でキャベツを千切りにしていたカイは、手を止めることなく、むしろ心地よいリズムで包丁を走らせていた。


「……ト、トトトトトト」


「おい、人間ッ! 我の話を聞いているのか!」 「あ、すみません。今、一番繊細なところなので。……リノ所長、魔王様にご案内を」


 呼ばれたリノは、鼻をほじりながら魔王を見上げた。 「ああ、魔王さん。いらっしゃい。立ち食いなら並ばなくていいけど、座るならあそこの最後尾に並んで。あと、入場料の代わりに何か面白い魔石持ってない?」


「……何だと?」  魔王の額に青筋が浮かぶ。指先に黒い雷が収束し、ロビー全体がミシミシと悲鳴を上げる。 「我は魔王サタナス。この世を混沌に陥れる者だ。貴様らごとき端くれの役人と料理人が、この我に『並べ』と言ったのか……?」


「サタナス様、落ち着くのじゃ。ここでの暴挙は、我の『パンナコッタ権』を脅かす行為に等しい」    ひょい、と横から顔を出したのは、エプロン姿のダンジョンマスター・エリスだった。彼女はベリーソースで赤く染まった口元を拭い、魔王を冷たく見下ろす。


「エリス……貴様、それでも高貴なる吸血鬼か。何だその姿は」 「姿などどうでもよい。それより、これを食せ。さもなくば、お主との同盟は今日限りで破棄じゃ」


 カイは黙って、鉄板の上で「それ」を完成させた。  特別編:『究極の厚切りカツレツ定食 〜熟成デミグラスソースがけ〜』。


「――シュワアアアアアッ!」


 最後に回しかけられた熱々のソースが、黄金色の衣の上で弾ける。  それは、単なる「揚げ物」の匂いではなかった。数種類の魔獣の骨を三日三晩煮込み、焦がした野菜と赤ワインを極限まで凝縮させた、深淵のような黒褐色のソース。その香りが魔王の鼻腔を直撃した瞬間、彼の指先から黒い雷が霧散した。


「……ほう。この、死を予感させる黒きソース。悪くない」 「毒味をしてから殺してやろう」と魔王は強弁し、巨大な玉座のような椅子を魔力で生成してどっかりと座った。


 カイは、皿を差し出す。  カツレツは、魔王の拳よりも厚い。だが、ナイフを入れた瞬間――。


 ――サクッ、ジュワッ。


「――っ!?!? なんだ、この……この抵抗感のない断裂はッ!」


 魔王は驚愕した。  分厚い肉は、赤子の肌よりも柔らかく、それでいて噛みしめるたびに「旨味の爆弾」が口の中で連鎖的に爆発していく。   「……ぬ、ぬおおおおおおッ!? 旨い! 旨すぎるぞ、人間! なんだこのソースは! 幾千の怨嗟を煮詰めたような深みがありながら、後味は聖女の慈悲のように清らかだ! 衣の香ばしさが脳髄を直接揺さぶり、肉の脂が魔力回路を激しく活性化させていく……っ!」


 魔王は、もはや自分が何をしに来たのか忘れていた。  漆黒のマントをかなぐり捨て、一心不乱にカツレツを頬張る。


「おい、人間! 白い飯だ! このソースを受け止めるための、あの白い飯を持ってこい!」 「はい、大盛りですね。……勇者様、お冷やを」


「承知した! 魔王よ、これが平和の味だ。甘んじて受け入れろ!」  皿洗い中の勇者レオンが、これ見よがしにキンキンに冷えた水を魔王の前に置く。


「……ぐびっ、ぐびっ……、ぷはぁぁぁぁぁッ!!」


 魔王は天を仰いだ。  彼の瞳から、一筋の涙……ではなく、どす黒い魔力が浄化されたような、澄んだ滴がこぼれる。


「……負けた。我は、このカツレツに、そしてこの『平和な窓口』に敗北したのだ。人間を滅ぼして、この味が失われることを考えれば……魔界を統べることなど、無意味に等しい」


「話が早くて助かります、魔王さん」  リノがニヤリと笑う。


「……カイよ。我もここで働かせろ。我の魔力があれば、火力の調整も、肉の熟成も思いのままだ。我が軍の四天王も、順次ここへ派遣して厨房の戦力にしよう」


「いえ、魔王様は……そうですね。あそこのゴミ捨て場の魔物避けをお願いできますか?」 「な……っ。この我に、門番をしろというのか!?」 「まかない、三食付きですよ。デザートも」


「……謹んでお引き受けしよう」


 数時間後。  奈落の口ダンジョンの入り口には、また一つ新しい看板が掲げられていた。


『警備:魔王サタナス(まかない募集中につき、不審者は即・排除)』


 夕暮れのロビー。  勇者が皿を洗い、魔王がゴミ袋を運び、吸血鬼がパンナコッタを世話し、元エリート騎士が昼寝をする。  その中心で、カイは今日も静かにフライパンを磨いていた。


「……さて。明日は何を焼きましょうか」


 世界を滅ぼすはずだった力は、今や「美味しい飯を待つ列」を守るために使われている。  ダンジョンの受付は、今日も、そしてこれからも。  誰一人として攻略を目指さない、世界で最も平和な場所であり続けるのだ。


「カイ殿! 魔王がお代わりを要求している! 奴め、キャベツまで完食したぞ!」 「はいはい。今、揚げたてを出しますから」


 笑い声と、揚げ物の音。  平和の香りは、虹の向こうまで続いていた。


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『ダンジョン受付の賄い飯が聖水より効くんだが? 〜入場料より食費で稼ぐ異世界スローライフ〜』 春秋花壇 @mai5000jp

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