第10話:今日も受付は平和なり

――コンコン、と軽快な包丁の音が、朝露に濡れた森に響き渡る。


 かつて「死の口」と恐れられた辺境ダンジョン『奈落の口』。その入り口は今や、王都の目抜き通りよりも活気に満ち溢れていた。ただし、そこに漂っているのは死の予感ではなく、胃袋を震わせる「暴力的なまでに旨い」香りの数々だ。


「――はい、おはよう。今日も一層はトラップの点検と床掃除中だから、奥には入らないでね。あ、そこのオーク、列に割り込まない。トイレの列はあっちだよ」


 リノ所長が、もはや軍服ですらなくエプロンを羽織った姿で、メガホン片手に交通整理をしている。彼女の横では、白銀の鎧をピカピカに磨き上げた勇者レオンが、慣れた手つきでテーブルを拭き上げていた。


「所長、三番テーブルのコップが足りません! 聖剣で予備の木材を削り出しておきますか!?」 「バカ言わないの。贅沢な使い道ね、もう。カイ、準備はどう?」


 カウンターの奥。そこには、巨大な鉄板と幾つもの鍋を自在に操るカイの姿があった。  今日の看板は、これまでの集大成。


「準備万端です。……本日のメニューは、『全部乗せ・特製ダンジョン定食』!」


 カイが鉄板の上に、厚切りの魔獣ベーコン、昨日から煮込んだスペアリブ、そして新鮮な卵を豪快に並べる。  ――ジュワアアアアアッ!  熱気が一気に膨れ上がり、肉の脂が弾ける快音がロビーを包む。仕上げに、ダンジョンマスターのエリスが自ら森で摘んできたハーブを散らせば、五感を揺さぶる至高の定食が完成だ。


「さあ、お待たせしました。一日の活力をここでどうぞ!」


「うおおおおおっ! 待ってました!」


 最初にトレイを受け取ったのは、かつてこのダンジョンを攻略しようと目を血走らせていたベテラン戦士だ。彼は今、剣を杖代わりに置き、震える手で箸を取る。


「これだよ、これ。このベーコンの暴力的な厚み! それに、このパンナコッタのソースが隠し味に入った特製タレ……。これさえあれば、ダンジョンの最深部なんて行かなくていい。ここが俺の終着駅だ」


 隣の席では、巨大なオークと魔導師の少女が、仲良く牛丼の具を分け合っている。  かつて殺し合っていたはずの者たちが、同じ湯気の向こう側で「旨いなぁ」と顔を綻ばせているのだ。


「……ねえ、カイ」  エリスが、カウンターの指定席(特注のクッション付き)に座り、パンナコッタを頬張りながら呟いた。 「お主が来てからというもの、我がダンジョンはすっかり様変わりしてしまったな。魔物どもは『戦うより働いて食う方が効率的だ』と気づき、侵入者どもは『命を懸けるより金を払って食う方が幸せだ』と悟ってしまった」


「お気に召しませんか?」  カイが微笑む。エリスは真っ赤な瞳を細め、幸せそうに口元のベリーソースを舐めた。


「……ふん。管理の手間が省けて良いわ。何より、この『定食』の満足感には抗えぬ。お主の火加減は、我の魔力を上回る禁忌の術理じゃ」


 そこへ、一人の若い新人がやってきた。  彼は不安げにロビーを見渡し、腰の錆びた剣を握りしめながらカイに尋ねた。


「あの……ここ、ダンジョンですよね? 伝説の秘宝が眠っているという……」


 カイは、トングを置いて優しく微笑んだ。


「ええ、そうです。ですが、秘宝を探す前に、まずはこれを食べていきませんか? ちなみに、奥に進むならこの『魔法のトイレ』が必要です。……まあ、たぶん必要なくなると思いますけど」


「えっ……? どういう意味ですか?」


「食べればわかりますよ」


 カイが差し出したのは、溢れんばかりの肉汁を湛えたスペアリブと、黄金色に輝く卵を乗せたご飯だ。  新人は戸惑いながらも一口、それを口に運んだ。  ――その瞬間、彼の瞳から一筋の涙がこぼれ、握っていた剣が床に落ちる。


「……なんで、俺、こんなに無理してたんだろ。……あぁ、生きててよかった……」


 その光景を見て、リノとレオン、そしてエリスが同時に吹き出した。  また一人、攻略者が「お客様」に変わった瞬間だった。


「カイ、あんた本当に最低で最高ね」  リノが、余ったエールを片手に笑う。 「世界最強の勇者も、恐ろしい吸血鬼も、血気盛んな冒険者も、みんなあんたのフライパン一つに屈服しちゃったわ。これじゃ魔王軍も、攻めてくる前にここで宴会始めちゃうわよ」


「そうなったら、もっと大きな鍋を買わないといけませんね」


 カイは、窓から差し込む朝陽を浴びて、静かに包丁を握り直した。  かつて戦場で、千人の兵士を「戦わせるため」に飯を作っていた男は、今、この辺境の入り口で、千人の「戦う理由」を奪い続けている。


 入り口でトイレを配り、最高の飯を作り、時折迷い込んできた魔物と今日の天気を話す。  名声も、伝説の武器も、ここでは一切意味をなさない。  ただ、「旨い」という喜びが、すべてを平等にする。


「さあ、お代わりはいかがですか? まだまだ肉はありますよ!」


 カイの声が、青空の下に響き渡る。  奈落の口ダンジョンの受付は、今日も世界で一番平和な、香ばしい匂いで満ちていた。


 ――全10話・完――


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