第9話:ダンジョンマスターの御出座

――ゴゴゴゴゴ……ッ!!


 それは、地響きと共にやってきた。  奈落の口ダンジョンの深淵より吹き上がる、凍てつくような魔力の奔流。  平和な昼下がりの受付ロビーに、かつてない緊張が走る。並んでいた冒険者たちは腰を抜かし、皿洗いをしていた勇者レオンが咄嗟に濡れた手のまま聖剣に手をかけた。


「……来たわね。このダンジョンの『真の主』が」


 リノ所長が表情を引き締める。  真っ暗な洞窟の奥から現れたのは、小さな、だが圧倒的な存在感を放つ影。  透き通るような銀髪をなびかせ、真紅の瞳を怒りに燃やした美少女――吸血鬼のダンジョンマスター、エリスだった。


「――人間どもめ! いい加減にせぬかッ!!」


 彼女が叫ぶと、ロビーの窓ガラスがガタガタと震えた。エリスは浮遊したままカウンターの前まで詰め寄り、華奢な指先でカイを指差した。


「一ヶ月じゃ! ここ一ヶ月、第三階層より下に足を踏み入れた人間が、ただの一人もおらぬ! 誰も罠にかからぬし、誰も秘宝を狙いに来ぬ! 我は暇すぎて、三日前から地下でコケの数を数えておったのじゃぞ! すべてはお主の仕業かッ!」


「はあ……。まあ、そうかもしれません」


 カイは、激昂するエリスを前にしても、驚くほど冷静だった。  彼はちょうど、リノと約束していた「仕上げ」の最中だったのだ。


「誰が『はあ』じゃ! 我がダンジョンは、恐怖と欲望が渦巻く場所でなければならぬ! それを何だ、この平和ボケした匂いは! ニンニクだの醤油だの、我が鼻が狂ってしまうわ!」


「お怒りはごもっともです。ですが、マスター」


 カイは、冷蔵魔法でキンキンに冷やした小皿を、すっと差し出した。  そこに乗っていたのは、雪のように白く、絹のように滑らかな質感のデザート。


「まずは、これを。話はそれからです」


「……何だ、このぷるぷるとした物体は。我を毒殺する気か?」 「『極上ミルクのパンナコッタ 〜森のベリーソース〜』です」


 エリスは疑わしげに鼻を動かした。  その瞬間、彼女の動きが止まる。  搾りたての濃厚なミルクの甘い香りと、森で摘んだばかりの木苺(ラズベリー)の野性味あふれる酸味が、層を成して彼女の嗅覚を愛撫した。


「……ふ、ふん。我がような高貴な吸血鬼が、人間界の安っぽい菓子などに――」


 言いながらも、彼女の手は勝手にスプーンを掴んでいた。  一口、その白い塊を掬い取る。驚くほど弾力があるのに、スプーンが吸い込まれるような柔らかさ。それを、恐る恐る小さな唇へと運んだ。


「――っ……!?」


 エリスの真紅の瞳が、限界まで見開かれた。  舌の上に乗せた瞬間、体温でパンナコッタが魔法のように溶けていく。  ミルクの暴力的なまでのコクが口内を支配し、その重さを、鮮烈なベリーソースの酸味が鮮やかに塗り替えていく。甘美。そう、まさに甘美という言葉はこのためにあった。


「……ひ、ひゃあああぁぁぁ……っ!」


 エリスの瞳から、一粒の大きな涙が零れ落ちた。  彼女はガタガタと震えながら、二口、三口と、我を忘れてパンナコッタを口に放り込む。


「な、なんじゃこれ……! 我は数百年生きてきたが、これほどまでに清らかで、慈愛に満ちた味を知らぬ! 今まで啜ってきた勇者の鮮血など、泥水のように思えてくる……っ! 甘い……。冷たくて、心が洗われるようじゃ……」


「お口に合いましたか」


「合うなどというレベルではないわ! これを作ったのはお主か? お主なのか!?」


 エリスはカウンターを乗り越えんばかりの勢いでカイに詰め寄った。  彼女の目には、さっきまでの殺意は微塵もない。あるのは、ただ純粋な「渇望」だ。


「お主……名を何と申す?」


「カイです」


「カイよ、提案がある! いや、勅命じゃ! この『パンナコッタ』とやらを、毎日、我が玉座まで届けよ! そうすれば……そう、お主にこのダンジョンの管理権すべてを与えてやってもよいぞ! 人間どもが奥に来ぬことなど、もうどうでもよい! 我が、ここでこれを食べ続けられれば、それでよいのじゃ!」


「それは……受付の仕事として、ということでよろしいでしょうか?」


「何を言うか! もはやここはダンジョンではない、お主の厨房じゃ! 我が許可する、好きなようにやるがよい!」


 リノ所長が、呆れたように、でもどこか誇らしげに肩をすくめた。  勇者レオンは、皿洗いの手を止めて「……世界が、甘味で救われた瞬間を見た」と深く頷いている。


「……困りましたね。僕はただ、静かに暮らしたかっただけなんですけど」


 カイは苦笑いしながら、お代わりのパンナコッタを準備した。  ダンジョンマスターまでもが食に屈した今、この『奈落の口』は名実ともに、世界で最も安全で美味しい場所となった。


「カイ、お代わりじゃ! ソースはもっと多めで! あ、それと、明日は何か温かいものも作れ。パンに合うやつをな!」


「承知しました、マスター」


 吸血鬼の美少女が、カウンターの端にちょこんと座り、足をブラブラさせながらデザートを頬張る。  かつての戦場では考えられなかった、あまりにも奇妙で、あまりにも優しい光景。


 カイは窓の外を見た。  雨は上がり、空には美しい虹が架かっている。  明日はきっと、今日よりも多くのお客様がやってくるだろう。  魔王軍の幹部か、それとも王都の姫君か。


「さて。明日は何を焼きましょうか、所長」


「……そうね。みんなが度腰を抜かすような、最高の『まかない』をお願いするわ」


 物語は、いよいよフィナーレへ。  世界で一番平和なダンジョン受付の、一日の終わりを告げる鐘が鳴った。


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