第8話:雨の日の特製煮込み
――シトシトと、深い森を濡らす雨の音が響く。
いつもなら冒険者たちの喧騒で賑わう『奈落の口』の受付ロビーは、今日ばかりは静まり返っていた。湿った土の匂いと、低い雲がもたらす薄暗さが、どこか孤独な気配を運んでくる。
「……ねえ、カイ。今日はお客さん、来そうにないわね」
カウンターに頬杖をつき、リノ所長が力なく呟いた。いつもなら「昼寝ができる」と喜ぶはずの彼女も、ここ最近の活気になれてしまったのか、少しだけ手持ち無沙汰のようだ。
「そうですね。この雨じゃ、馬車も出ないでしょうし」
カイは、受付の奥にある小さな作業場で、大きな銅鍋の前に立っていた。 外の寒さを撥ね退けるように、そこだけは柔らかな熱気が満ちている。
「今日は所長と、それから皿洗いの勇者様……あ、彼は雨漏りの修繕に行ってましたね。二人分のために、特別に時間をかけました」
カイが重い蓋を持ち上げる。 その瞬間、ロビーの空気が一変した。
濃厚な赤ワインの酸味ある香りと、じっくりと焼き色をつけた魔獣の脂の甘み。そこにブーケガルニの爽やかなハーブの薫香が重なり、重厚なカーテンのように二人を包み込む。
「……っ、何この匂い。深くて、どこか切なくて……でも、すごく温かい」
リノが引き寄せられるように、カウンター越しに鍋を覗き込んだ。 漆黒に近い深紅のソースの中で、拳ほどもある大きなバラ肉が、原型を留めているのが不思議なほど柔らかそうに揺れている。
「看板メニュー:魔獣の赤ワイン煮込みです。バラ肉の繊維一本一本に、ワインのコクと野菜の旨味を染み込ませました」
カイは丁寧に肉を皿に盛り、スプーン一杯のソースを上から回しかけた。 湯気とともに、芳醇な香りが鼻先をくすぐる。
「食べてみてください。少し、体が温まりますよ」
リノは言われるままにスプーンを手に取った。 肉に触れた瞬間、抵抗もなくスッと繊維がほどける。それを一口、口に運ぶ。
「――っ……」
リノは目を見開き、そのまま動かなくなった。 舌の上で肉が、噛む必要すらないほどにホロホロと解けていく。赤ワインの渋みは角が取れて完璧なコクに変わり、脂身の甘さが後から波のように追いかけてくる。
「……美味しい。美味しいわ、カイ。でも、なんだか……胸が苦しくなるくらい、優しい味がする」
リノが潤んだ瞳でカイを見上げた。 カイは、揺れるコンロの火を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……僕は、かつて戦場にいました。超一流ギルドの料理番なんて格好いいもんじゃありません。ただの『補給係』です」
その声は、雨の音に混じって静かにロビーに染み込んでいく。
「毎日、千人の兵士を明日も戦わせるために、ただ効率だけを求めて火を使っていました。栄養価だけを計算し、腐りかけの肉を香辛料で誤魔化し、味よりも量を。彼らがどんな顔で食べているかなんて、見る余裕もなかった」
カイの手が、微かに震える。
「ある日、一人の兵士が言ったんです。『明日の突撃の前に、せめて故郷のスープの匂いを嗅ぎたかったな』って。……彼は、その翌日に帰らぬ人となりました。僕はその時、自分が作っていたのは『飯』ではなく、ただの『燃料』だったんだと気付いたんです」
調理場の熱気の中で、カイの表情が少しだけ寂しげに歪んだ。
「だから、逃げ出したんです。もう、誰かを戦わせるための飯は作りたくない。……でも、ここに来て、所長や、あの食いしん坊な冒険者たちを見て、ようやくわかった気がします」
カイは顔を上げ、リノを真っ直ぐに見つめた。
「僕は今、誰かを笑顔にするためだけに火を使える。それが……本当に嬉しいんです。攻略なんてしなくていい。ただ、美味しいと言って帰っていく背中を見送れることが、僕にとっての救いなんです」
ロビーに、沈黙が流れた。 雨音だけが優しく、カイの告白を包み込んでいく。
リノは、最後の一口まで大切に煮込みを味わうと、そっと皿を置いた。 そして、カウンター越しにカイの手の上に、自分の温かい手を重ねた。
「……カイ。あんたの飯で、戦う気を失くした人たちが、どれだけ救われてるか知ってる?」
「え?」
「みんな、死ぬのが怖くて、でも名誉のために無理して潜ろうとしてた。それをあんたが『食べる幸せ』で引き留めたの。……あんたは戦場から逃げたんじゃないわ。新しい平和の守り方を見つけたのよ」
リノの言葉に、カイの目元がわずかに熱くなる。 湯気の向こう側で、二人の視線が重なった。 普段はズボラな所長と、生真面目な受付。けれど、今この瞬間だけは、孤独を抱えた二人の魂が、赤ワイン煮込みの熱を通じて溶け合っているようだった。
「……ねえ、カイ」
「はい、所長」
「明日、もし雨が上がったら……デザートに、甘いものも作ってくれる? その……私だけのために、少し多めで」
少しだけ顔を赤らめてそっぽを向くリノに、カイは今日一番の、心からの笑顔を見せた。
「ええ。とびきりのパンナコッタを用意しておきますね」
雨はまだ降り続いている。 けれど、奈落の口ダンジョンの受付には、どんな魔導具よりも温かく、優しい灯火が灯っていた。
……その穏やかな空気を、ダンジョンの最深部から這い上がってきた「王の気配」が、無遠慮に切り裂こうとしていることも知らずに。
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