第5話:伝説の勇者、食に屈する

「――どいつもこいつも、腑抜けた面をしおって! 退け! 勇者レオン様のお通りだ!」


 静かだった受付ロビーの扉が、凄まじい勢いで蹴破られた。  現れたのは、眩いばかりの白銀の鎧に身を包んだ美青年。腰には国宝級の聖剣、背中には汚れ一つない真っ白なマント。  王都でその名を知らぬ者はいない「伝説の勇者候補」、レオンである。


 彼は血走った目でロビーを見渡し、ベンチでミネストローネを啜りながら「あ〜、デトックス最高……」と蕩けているベテラン冒険者たちを指差して吠えた。


「この体たらくは何事だ! 魔王の足音が聞こえぬのか! 最近、この『奈落の口』の攻略進捗が完全に止まっていると報告があった。原因は……貴様かッ!」


 レオンが聖剣の切っ先を向けたのは、カウンターの奥で黙々と「肉」に包丁を入れていたカイだった。


「ひっ、勇者様!? あの、暴力はやめてください、ここは公共の施設で……!」  リノ所長が慌てて飛び出すが、レオンは止まらない。


「黙れ左遷所長! 受付で飯を炊くなど正気の沙汰ではない。貴様が軟弱な餌で戦士たちを誘惑し、戦意を削いでいるのだろう! この料理人め、そのふざけた鍋ごと叩き斬って――」


 ――ジワァ。


 レオンの言葉が、その音に遮られた。  カイが、厚く切り分けた魔獣の骨付き肉を、熱した鉄板に置いた音だ。


「……話は聞きました。ですが勇者様、空腹では正義の議論も捗らないでしょう?」


 カイの表情は、凪いだ海のように静かだった。  彼はレオンの怒号を無視し、手元に集中する。  鉄板の上で、スペアリブの表面が猛烈な勢いで焼き固められていく。肉汁が炭火に滴り、シュンと白い煙を上げた。その煙が、ロビー中に「野性的で濃厚な肉の香り」を爆発させる。


「ぬぐ……っ。な、なんだ、この挑発的な匂いは……」 「特製ソースです。バルサミコ酢の酸味と、魔界蜂蜜のコク、それに十種類のスパイスを調合しました」


 カイは、琥珀色に輝くトロリとしたソースを肉に絡める。  熱されたソースが肉の上でブクブクと泡立ち、焦げた蜂蜜の甘い香りと、酢のツンとした芳醇な香りが混ざり合う。それは嗅ぐだけで胃袋を直接掴んで振り回すような、暴力的なまでの誘惑だった。


「……ふん、小賢しい真似を。私は王宮で最高級のフルコースを食べてきているのだ。こんな野蛮な肉料理に――」


「はい、焼き上がりました。どうぞ」


 カイは、骨の周りがカリカリに焦げ、中は溢れんばかりの肉汁を湛えたスペアリブを、レオンの鼻先に差し出した。  レオンの喉が、こくりと鳴った。  聖剣を握る手が、微かに震える。


「……毒味だ。毒味をしてから、貴様を投獄してやる……っ!」


 レオンは引ったくるように肉を掴み、骨ごと豪快にかぶりついた。


 ――バリッ! ジュワアア……。


 その瞬間、レオンの脳内に閃光が走った。  表面の皮目は驚くほどクリスピーで、歯を立てた瞬間に快い音を立てて弾ける。そこから噴き出したのは、今まで食べたどの肉よりも濃厚な、溶岩のような熱い肉汁だ。


「――っ!? ぁ、あああああああッ!!」


 レオンの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。


「なんだ、このソースの黄金比は……っ! バルサミコの鋭い酸味が肉の脂を中和し、魔界蜂蜜の深みのある甘さが、舌の奥にある味覚の蕾をすべて強制開放していく……! スパイスが鼻を突き抜け、血の巡りが加速して……っ。これ、これこそが……『勝利』の味じゃないか!」


 彼は無我夢中で肉を貪った。  白銀の鎧にタレが飛び散るのも構わず、骨の髄までしゃぶり尽くす。  最後の一口を飲み込んだ時、レオンの顔から「選ばれし者の傲慢」は消え去っていた。


「……負けた。完敗だ」


 レオンは、カランと音を立てて聖剣を床に置いた。  そして、自分の汚れた手を呆然と見つめる。


「魔王を倒す? 世界を救う? ……そんな大義名分、この肉の充足感の前では砂粒のようなものだ。この肉を焼いた男を処罰しようとした自分が、恥ずかしくてならない。……僕は、勇者失格だ」


「そこまで落ち込まなくても……」  リノが苦笑いして声をかけるが、レオンはガタガタと震えながらカイに向かって深く頭を下げた。


「料理人殿! 今の僕には、聖剣を振るう資格も、ダンジョンの奥へ進む資格もありません! 今の僕にあるのは、この素晴らしい肉を咀嚼したという強欲な罪悪感だけだ!」


「はあ……」


「頼む! この罪を、労働で償わせてくれ! 今の僕にできるのは……そうだ、せめてこの皿を、元の白銀の鎧より美しく磨き上げることだけだ!」


 そう言うなり、レオンは眩しいマントを脱ぎ捨て、リノが貸し出す暇もなかった予備のエプロンを勝手に装着した。


「おい、そこ退け! 皿洗いなら勇者(候補)の僕が、光速の剣技でこなしてやる! カイ殿、次の肉を焼いてくれ! 僕が完璧な状態で次の客に皿を届ける!」


 数分後。  そこには、額に汗を浮かべながら、凄まじい手際で皿をキュッキュと磨き上げる勇者の姿があった。  行列の冒険者たちは、伝説の勇者に皿を渡され、ビクビクしながらスペアリブを頬張っている。


「……ねえ、カイ」  リノが、遠い目で皿洗いの勇者を見つめる。 「うちのスタッフ、豪華すぎない? 元・一流料理人の受付に、元・エリート騎士の所長。そこに現役の勇者が皿洗いで加わったわよ」


「賑やかでいいじゃないですか」


 カイは、追加のスペアリブを鉄板に並べた。  勇者の参戦により、受付ロビーの熱気は最高潮に達する。  もはや誰も、ダンジョンの奥に何があるのか興味を持っていないようだった。


「さて、勇者様。次はコップの洗浄をお願いします」 「承知した! ジャスティス・クリーニングだッ!」


 今日も奈落の口ダンジョンは、平和という名の「胃袋の支配」に包まれていく。  だが、その入り口の喧騒を、暗闇の奥から見つめる「大きな瞳」が、ついに我慢の限界に達しようとしていた。


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