黒き誘惑と堕落への序曲
玉に近づくにつれ、凌雲は、一種の異常な感覚を覚え始めた。
それは、視覚的な感覚ではなく、精神的な感覚であった。その玉からは、一種の呼びかけが、凌雲の心に直接に届いていたのだ。
その呼びかけは、言語ではなく、一種の感情の波動であった。その波動は、深く、重く、そして何か邪悪な響きを持っていたのである。しかし、同時に、その波動には、一種の魅力が含まれていたのだ。
凌雲の心は、その魅力に引き寄せられていった。
その魅力は、彼の人生で最も求め続けていたもの——究極の武術への到達——を約束していたのだ。
白鳳派の正統な修行により、凌雲は、すでに先天之気の域に到達していた。その境地に至る武人は、江湖全体でも、極めて稀有な存在である。彼の剣技は、もはや人間業の領域を超えており、その内功は、完璧に近いほど精妙であったのだ。
しかし、凌雲の心は、それで満足していなかったのだ。
彼は、常に、さらなる高みを求めていたのである。正統な武学の範疇を超えた、その向こう側にある力。そのような力を手にすることで、自分は何になることができるのか。そのような問いが、彼の心の奥底に、常に存在していたのだ。
白鳳派の掌門・蓮心真人は、かつて凌雲に警告したことがあった。
「凌雲よ。究極の武術を求める心は、武人として自然なものだ。しかし、その求道の先にあるのが、必ずしも光とは限らぬのだ。時に、その先にあるのは、深い闇かもしれぬ」
その警告の意味を、凌雲は、その時は理解していなかったのである。
だが、今、この秘窟に立ち、淵龍珠からの呼びかけを感じながら、彼は、ようやく掌門の言葉の重みを理解し始めていたのだ。
しかし、その理解は、もはや遅すぎたのである。
黑き誘惑の波動は、凌雲の心を完全に支配していたのだ。理性が、いくら警告を発しようとも、その警告は、誘惑の波動に圧倒されていったのである。
凌雲は、もはや抵抗することができなかった。彼の理性が、いかに警告を発そうとも、それは無視されていったのだ。一人の武人として、さらなる高みを求める者として、彼は、もはや後戻りすることはできないのだと、彼は理解していた。
彼は、玉へと両手を伸ばした。
その瞬間、玉から、一種の黒い光が放射された。
その光は、凌雲の両手に巻き付き、やがて彼の全身へと浸透していったのである。
凌雲は、その時、人生で最高の快感を覚えた。それは、武術の修行で感じる充足感をはるかに超えた、一種の陶酔感であった。
彼の体の内部で、莫大な力が、渦巻き始めたのだ。その力は、彼の既存の内功を完全に凌駕し、彼の体を新しき力で満たしていったのである。
「これだ。これがすべてだ」
凌雲は、その快感の中で、呟いた。
「究極の力。我はついに、手にしたのだ」
黑き光は、やがて、凌雲の全身を覆い尽くした。その光の中で、凌雲は、一人の武人から、何か異なる存在へと変わり始めたのである。
その変化は、身体的なものではなく、精神的なものであった。しかし、その精神的な変化は、やがて彼の身体にも、深刻な影響をもたらすことになるのだ。
凌雲の瞳の色が、わずかに変わった。それまでの清廉さが失われ、その代わりに、一種の冷酷さと邪悪さが、その瞳に宿り始めたのである。
彼の肌の色も、わずかに蒼白くなった。それは、まるで彼の生命力の一部が、淵龍珠に吸収されているかのようであった。しかし、その代わりに、彼は、計り知れぬほどの力を得ていたのだ。
やがて、黒い光は、凌雲の体へと完全に吸収されていった。
凌雲は、秘窟の中に、ゆっくりと立ち上がった。
その時、凌雲の周囲から、黑い気が放射され始めたのである。その気は、秘窟の石壁さえも侵食し始め、やがて秘窟全体が、揺れ動き始めたのだ。
凌雲は、龍淵秘窟から出ることにした。
秘窟を出た時、凌雲は、自分の手をじっと見つめた。その手から放射される気は、かつての白銀色ではなく、黒い色へと変わっていたのである。
凌雲は、その時、何が起こったのかを、完全には理解していなかった。ただ、彼は、自分が変わったこと、そして、その変化が取り返しのつかないものであることを、本能的に知っていたのだ。
凌雲は、秘窟の前で、長く立ち尽くしていた。
やがて、彼は、白鳳派へ帰ることを決めたのである。
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