ときめきスイッチ、押しますか。
雪城 冴(ゆきしろ さえ)
三和の場合
もう肉を切るのもめんどくさい。
私はパッケージに入った鶏もも肉と睨み合い、一枚丸々鍋の中にぶち込んだ。
カット済みの肉を買えばいいのだが、物価が上がった昨今ついつい大きな方を買ってしまう。
「えーっと……」
息子は愛くるしい笑みを浮かべながら紙袋から人参を取り出し、少ない歯で一生懸命かじっている。
「人参も入れよっかな」
小さな手から大事なおもちゃを取り上げられ、部屋に怪獣の鳴き声が響く。
「ほらほら、これはどうかなー?」
屈んでボウルを渡す。銀色に反射して自分の顔が映ると、きゃきゃっと甲高い声を上げる。ご満足いただけたようだ。
小さくなった人参は、鶏肉と仲良く鍋の中。間もなく湯気が立ち込め、醤油と出汁のいい香りが漂う。
後はほうれん草でも茹でれば上出来だ。
晩ごはんの準備という一大イベントに目処が立って、私はふっと息をつきかけた。
その時。
ピンポーン――
「はーい」
宅急便だろうか。
炊飯器を開け閉めしている我が子をフットボールのように抱え、玄関先まで走った。
「中野様ですね。お届け物です」
「お疲れ様です」
ドアを閉め荷物を確認する。両手に乗るくらいの小さな段ボールだ。
――中野
宛名は私だ。
「何か頼んだっけ」
首をひねる。
差出人の名前に見覚えはない。
机においてそっと開けてみると、小さなボタンが入っていた。早押しクイズ番組とかで見る、あれ。
底にB5判のペラ紙が頼りなく入っている。
「ときめきスイッチ……?」
"押すだけでときめいていたあの頃に戻れます。お代はあなたのときめきで"
私は思わず眉をひそめた。
「なにこれ、新手の詐欺? こんなのに騙される人がいるから、世の中から悪人がいなくならないのよ」
そう、思うのに――
どうして私は、今すぐこれをゴミ箱に捨てないんだろうか。
意識は一瞬で、高校一年の頃に引き戻された。
三年の先輩。彼は背が高く細身で、ハンサムではなかったが面白くて人気者だった。
文化祭のライブは、勇気が出なくて友達についてもらい舞台袖まで行った。
薄暗い中、出番後の先輩はわずかに息を切らし、私にギターのピックをくれた。
その時かすかに触れた指先。
「うわ、冷たっ!」と言い、温めるように手を握ってくれた。
私は緊張のあまり手汗をかいていて、それが先輩にバレたのではと心配でしょうがなかった。
今となっては、ときめきよりもその記憶が鮮明に残っている。
告白なんてもちろんできなかったけど、私の気持ちは伝わっていたはず。
それなのに手を握るなんて……少しは可愛い後輩と思っていてくれたのか、好意を向けられる心地よさを味わっていただけなのか。
どちらにしても罪な男だ。
そういえばあのピックはどこに行ったんだろう――
私の思考は徐々に現実に戻ってきた。
「もし、あの頃に戻れるなら……?」
震える手でボタンに触れ、指先にゆっくり圧をかけた時――息子の叫びが聞こえる。
肉まんのような丸い顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「よしよし」
慌てて柔らかい身体を抱き上げると、説明書がはらりと宙を舞う。
裏にも何やら書いてある。
"体験中の行動によっては未来が変わる可能性がございます"
「ちょっと、なにこれ……こんな大事なこと、表に大きな字で書いといてよ」
そう言う自分の声は、思った以上に不満気だった。
「やだ……まさか私、本気にしてたの?」
苦笑すると、台所でぷしゅーっと鍋が吹きこぼれる音がし、私は急いで火を止めた。
◆ ◆
「ただいまー」
十時頃、夫はとっくに寝た息子を起こさぬよう小声でリビングに入る。
テーブルに目を向け驚いている。
「お、今日はなんか豪華だな」
「そう? いつも通りよ」
本当は予定になかったまぐろの刺身と、おかずをさらに一品追加した。
別に、夫以外の男性を思い出したお詫び。というわけではないのだけれど。
夫は着替えながら段ボールを指さす。
「これなに?」
ときめきスイッチだ。
「あ、置いておいて。後でしまうから」
「通販? 珍しいね」
私はご飯を茶碗によそいながら、なんてことない風に答えた。
「うん、化粧品」
未来が変わってしまうならときめきスイッチは使えない。
万が一にも息子に会えなくなったら困る。
二人で食卓についた。
相変わらず黙々と食べる夫。
いつだったか、美味しくないのかと拗ねてみせたら、『黙って完食するのは、上手いってことなんだ』と言っていたっけ。
だけど、今日は感想がなくても気にならなかった。
夫は私をじっと見つめる。
「いいことあった?」
「うん」
「え、なになに?」
私は大げさに抑揚をつけて報告する。
「たっくんね、アンパンマンって言えるようになったんだよ」
「うわー、パパより先にきたかぁ」
幸せな会話。幸せな家庭。
なのに、私はあのスイッチを捨てなかった。押したときのリスクもちゃんと分かっている。
どうしてかって?
それは私にも分からない。
私は夫に笑顔を向けた。
妻でもなく、母でもない――人生で一番ときめいていた、16歳の頃の笑顔を。
――終――
[後書き]
オチは何種類か迷いました。
最後まで迷ったのは『私は後ろ暗い気持ちを隠すように、夫ににっこり微笑んだ』でした。
しかし、三和には現在の自分の役割を自身で否定してほしかったのです。否定したからといって、妻として母としての三和が消えるわけではないのですが。
押してはいないけれど、このスイッチが三和に、家庭にもたらしたものは何だったのか……。
これで完結するかもしれませんし、また別の話を書くかもしれません。
最後までお読みくださってありがとうございました(_ _)
ときめきスイッチ、押しますか。 雪城 冴(ゆきしろ さえ) @yukishiro-haruka
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