第2話 傷のある風景
駆ける。駆ける。駆ける。
「順路」を示す矢印とは逆の方向へ。一歩でも、ニ歩でも、どこか遠くへ――そうしてたどり着いた先には錆びついたワイヤーフェンスが立ちはだかっていた。
『立入禁止 D-4エリア』
色褪せたプラスチックの札が風に揺れてカタリと乾いた音を立てている。
端末が激しく振動した。
【警告:エリア外です。推奨ルートに戻ってください】
【警告:心拍数が上昇しています。直ちに静止してください】
赤い警告灯が明滅し、私の鼓膜をノックする。
ミラは右の掌で端末を強く覆った。
うるさい。黙って。私を見ないで。
警告を物理的に遮断しフェンスの綻びを探す。
根元に近い部分の金網が経年劣化でめくれ上がっている箇所を見つけた。
人が一人、這いつくばれば通れそうな隙間だ。
ミラは迷わず地面に膝をついた。
清潔なルームウェアの膝部分が土と泥で汚れる。
その感触にミラは奇妙な安堵を覚えた。
汚れてもいい。
ここは「汚れ」が許された場所だ。
管理された清潔さよりも、放置された泥の冷たさの方が、今の私の肌には馴染む。
金網の下をくぐる。
錆びた鉄の棘が、服の袖を引っ掛け、二の腕の皮膚を薄く掠めた。
チクリとした痛みが走る。
けれど、その痛みは端末には記録されない。軽微すぎてエラーログに残らない、私だけの痛み。
それが嬉しかった。
フェンスの向こう側へ身体を押し出すと空気が変わった。
そこは建物の影になった「旧資材置き場」だった。
かつての増改築工事の際に使われ、そのまま放置された資材が乱雑に積み上げられている。
ブルーシートは紫外線で劣化してボロボロになり、赤茶色に錆びたドラム缶が墓標のように並んでいる。
地面はひび割れたコンクリートで、隙間からは名もなき雑草が勝手気ままに伸び放題になっていた。
臭いがあった。
表の庭のような、人工的なフローラルの香りではない。
湿った土の匂い。雨に濡れた鉄錆の匂い。日陰で腐りかけた枯れ葉の匂い。カビと埃の匂い。
不快なはずのその臭気を、ミラは貪るように吸い込んだ。
「⋯⋯あ」
呼吸が、できた。
肺の奥まで空気が入ってくる。
喉に詰まっていた鉛が、少しだけ溶けて流れていくような感覚。
ここは忘れられた場所だ。
システムが管理を放棄し、監視カメラの赤い目も届かない、世界の死角。
幸福になる義務も笑顔を作る強制もない。
ただ朽ちていくものが朽ちていくままに在ることが許されている。
私も、ここでなら。
壊れたままの私でも、この錆びたドラム缶と同じように、ただの「風景」になれるかもしれない。
ミラはコンクリートの壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
お尻の下で砂利がジャリジャリと音を立てる。
頭上を見上げると建物の排気ダクトが突き出ていて、低く鈍い駆動音を響かせていた。
ブーン、ブーンという重低音。
「森のせせらぎ」よりもずっと、そのノイズはミラの心臓のリズムに近かった。
端末はまだ、微かに振動を続けている。
【通信エラー:位置情報を確認できません】
その表示を見て、ミラは口元を緩めた。
私は今、行方不明だ。
誰からも観測されていない。
その事実がたまらなく心地よかった。
目を閉じ、泥のような眠気に身を委ねようとした、その時だった。
カタン。
物音がした。
風の音ではない。もっと硬質な、質量のあるものがぶつかる音。
ミラは弾かれたように目を開けた。
心臓が早鐘を打つ。
見つかった? スタッフが探しに来たのだろうか。連れ戻される。またあの白い部屋へ。また笑顔を作らされる場所へ。
恐怖で身体が強張る。
ミラは息を潜め、音のした方角――積み上げられた鉄パイプの山の陰を凝視した。
そこに、誰かがいた。
影の中に溶け込むような、灰色の人影。
スタッフの白い制服でも、入居者のパステルカラーでもない。
油と埃で薄汚れた、作業用のつなぎを着た少女。
彼女は、古びて座面の破れたパイプ椅子に腰掛けていた。
背もたれに深く体重を預け、長い脚を無造作に投げ出している。
手元には使い込まれたモップが一本、杖のように立てかけられていた。
少女はこちらを見ていなかった。
彼女の視線は、虚空の一点に向けられている。
そこには建物の排気口から吐き出される微細な埃が、西日を受けてキラキラと舞っているだけだ。
彼女はその埃のダンスを、まるで世界で一番面白い映画でも見ているかのように、じっと眺めていた。
動かない。
瞬きさえしているのかわからないほどの静止。
彼女は休憩しているというよりは、電源の落ちた機械のように、ただそこに「置かれて」いた。
ミラは唇を震わせた。
謝らなければ。ここに入ったことを。彼女の休憩を邪魔したことを。
それは染み付いた習性だった。自分が存在することで他者に不快感を与えることを、極端に恐れる条件反射。
「⋯⋯あ、あの」
掠れた声が出た。
灰色の少女が、ゆっくりと首を巡らせた。
目が合った。
色は薄い色素の茶色。
しかし、その瞳には何の感情も映っていなかった。
驚きも、不審も、嫌悪も、好奇心もない。
路傍の石を見るような、あるいは壁の染みを見るような、徹底的な無関心。
「ご、ごめんなさい⋯⋯すぐ、戻りますから⋯⋯」
ミラは立ち上がろうとした。
だが少女はミラを一瞥しただけで、すぐに視線を元の埃へと戻してしまった。
興味がないのだ。
ミラがここにいようがいまいが、彼女にとっては、舞い散る埃の軌道が変わるほどの重要事でもないらしい。
その反応に、ミラの足が止まった。
「どうしたの?」とも「入っちゃだめだよ」とも言われない。
心配もされなければ、注意もされない。
無視されている。
けれどそれは学校や社会で味わった「疎外」としての無視ではなく、ただ現象として「干渉しない」というだけの無視だった。
ミラは、再びゆっくりと腰を下ろした。
彼女が気にしないのなら私も気にしなくていいのかもしれない。
二人の間に会話のない時間が流れる。
排気ファンの駆動音だけが響く空間で、ミラは彼女の姿を盗み見た。
年齢はミラと同じくらいだろうか。
髪は無造作に束ねられ、後れ毛が頬にかかっている。肌は白く、あまり日光を浴びていないように見える。
そして彼女の左手首には何もなかった。
国民の義務であるはずのライフログ端末が、嵌められていない。
この世界に管理されていない人間がいるなんて。
彼女は何者なのだろう。
ふと、彼女が動いた。
組んでいた腕を解き、作業つなぎの袖をまくり上げる。
暑いのだろうか。
露わになった彼女の右腕を見て、ミラは息を呑んだ。
そこには、あってはならない「景色」があった。
少女がまくり上げた灰色の袖の下、右腕の手首から肘にかけて、皮膚がひどく引き攣れていた。
赤黒く変色したケロイド状の痕跡。
それは火傷の跡のようにも、あるいは鋭利な刃物で肉を削ぎ落とされた痕のようにも見えた。健康な白い肌の上に、そこだけが別の生き物のように隆起し、歪な地図を描いている。
ミラは息を呑んだ。
喉の奥で、小さな悲鳴が凍りついた。
この高度福祉都市エデンにおいて「傷」とは一時的なエラーに過ぎない。
転んで膝を擦りむいても、料理中に指を切っても、すぐに市販のナノマシン・スプレーを吹きかければ、数分後には痕跡もなく修復される。大事故に遭ったとしても再生医療センターに行けば、生まれたてのように滑らかな皮膚を取り戻せる。
傷跡を残すことは不衛生であり、非文明的であり、何より「自分の身体管理を怠っている」という怠慢の証拠とされる。
だからミラは見たことがなかった。
これほどまでに生々しく、破壊されたまま放置された肉体を。
それは完璧に整えられたこの世界の美観を損ねる、許されざるノイズだった。
見てはいけない。
そう思うのに、目が離せなかった。
その醜く歪んだ皮膚が、なぜか恐ろしく鮮烈で、中庭に咲くどんな花よりも圧倒的な「実存」を主張しているように見えたからだ。
「あ⋯⋯」
思考するよりも先に、言葉が漏れた。
それは無遠慮な干渉だった。マナー違反だった。それでも聞かずにはいられなかった。
「その腕⋯⋯」
少女が、ゆっくりと視線を自分の右腕に落とした。
隠す様子はない。慌てて袖を下ろすこともない。
ただ「ああ、これか」とでも言うように、無感動に自分の腕を見つめている。
「痛く、ないの?」
ミラの問いかけに少女は答えなかった。
代わりに、左手を持ち上げた。
細く、骨ばった指先が右腕の傷跡へと伸びる。
ミラは身構えた。痛む箇所をさするのだろうか。それとも痒みでもあるのだろうか。
彼女の動作は、そのどちらでもなかった。
彼女の人差し指が、赤黒く盛り上がったケロイドの端に触れた。
そして、ゆっくりと動き出した。
ツゥー、と。
指先が皮膚の凹凸をなぞっていく。
まるで地図上の等高線を確かめるように。
あるいは浜辺で拾った珍しい石の模様を観察するように。
そこには「労わり」もなければ「嫌悪」もない。ただ、物質の形状を確認するだけの冷徹で、静かな接触だった。
指の腹が硬化した皮膚の尾根を越え、谷間を滑り落ちる。
彼女は時折、指を止めて、盛り上がった部分を爪先でギュッと押した。
鬱血していた赤黒い色が、圧力によって白く抜け、指を離すとまたじわりと赤色が戻ってくる。
彼女はその色の変化を、飽きもせずにじっと眺めていた。
その仕草があまりにも淡々としていて、そして奇妙なほど丁寧だったから、ミラは言葉を失った。
彼女は、自分の傷を「痛々しい怪我」として扱っていない。
ただそこにある「質感(テクスチャ)」として触れているのだ。
「⋯⋯治さないの?」
沈黙に耐えきれず、ミラはもう一度尋ねた。
声は震えていた。
「申請すれば⋯⋯すぐに、綺麗になるのに。ここの医療ポッドならそんな傷、五分もあれば消えるのに。どうして、そのままにしておくの?」
この世界では修復こそが正義だ。
壊れたものは直さなければならない。汚れたものは洗わなければならない。
不幸な心は、幸福にしなければならない。
だからその傷も消さなければならない。そうでしょう?
ミラの「正しさ」に満ちた問いかけに対し、少女は作業の手を止めなかった。
傷の感触を指先で確かめながら視線だけを少し上げ、排気ダクトの汚れを見つめたまま、独り言のように呟いた。
「⋯⋯ここにあるだけ」
低い、温度のない声だった。
「⋯⋯え?」
「別に。あるだけ。⋯⋯それだけ」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
理由も、思想も、事情も語らなかった。
――ここにあるだけ。
その言葉が、ミラの頭の中で反響した。
意味がわからなかった。
あるだけ?
あってはいけないものが「ある」なら、それは異常事態だ。エラーだ。すぐに除去すべきバグだ。
けれど彼女は、それを肯定も否定もせず、ただ「状態」として受け入れている。
空に雲があるように。地面に石があるように。
自分の腕に消えない傷があることを。
ドクン、とミラの心臓が跳ねた。
手首の端末が激しく振動した。
【警告:ストレス値が急上昇しています】
【警告:心拍数の乱れを検知。深呼吸を推奨します】
赤いアラートが視界の隅で点滅している。
システムは、目の前の「異物」から目を逸らせと命令している。こんなものを見てはいけない。こんな価値観に触れてはいけない。君の精神衛生に悪影響だ。
けれど、ミラの胸の奥で高鳴っている鼓動は、恐怖によるものではなかった。
それは、未知の発見に震える興奮であり、あるいは――救済に近い安堵だった。
(傷があっても、いいの?)
直さなくていいの?
綺麗じゃなくていいの?
エラーを吐き出したまま、そこに座っていていいの?
もし、肉体の傷が「あるだけ」で許されるなら。
目に見えない私の心の傷も、治らない私の苦しみも「ここにあるだけ」で許されるのだろうか。
少女はもう、ミラのことなど忘れたように、再び傷の感触を確かめる作業に没頭していた。
その姿は、廃墟の中にぽつんと置かれた彫像のように静かで、残酷なほどに完成されていた。
薄暗い資材置き場に、排気ファンの駆動音がブーンと響き続けている。
その重低音の中で、ミラは自分の手首を強く握りしめた。
端末の警告音が、少しだけ遠くに聞こえた気がした。
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