幸福が義務の世界で少女は呼吸する
抵抗する拳
第1話 白い部屋の窒息
その部屋は暴力的なまでに白かった。
壁も、床も、天井も、すべてが徹底的に漂白されている。白衣を纏った医師の輪郭さえもが背景に溶け込みそうで、世界には「白」以外の色彩が存在することを許されていないように思えた。
唯一の色味といえば窓の外に見える緑だけだ。だがそれも計算され尽くした彩度と明度で管理された人工植物の緑だった。葉の一枚一枚が黄金比に基づいて配置され、決して枯れることなく、虫がつくこともなく、永遠に「癒やし」という機能だけを提供し続けている。
窓から差し込む木漏れ日さえも、太陽の恩恵ではない。天井に埋め込まれた高度な照明システムが、人間のバイオリズムに最適化された波長の光を、1/fゆらぎのリズムで投射しているに過ぎなかった。
完璧な世界だ、とミラは思った。
塵ひとつ落ちていない。カビの胞子ひとつ浮遊していない。
温度は常に二十四度。湿度は五十パーセント。不快指数はゼロ。
空調の微かな駆動音に乗せて、シトラスとラベンダーを合成した「精神安定アロマ」の香りが漂っている。それは肺の奥まで侵入し、強制的にリラックスすることを強いる匂いだった。
ここは都市の中心部に位置する「第十九療養センター」。
社会システムに適応できなくなった市民が、再び正しい歯車として回るためのメンテナンスを受ける場所。
あるいは汚れ物を白く洗い上げるための、巨大な洗濯機の中。
ミラは柔らかすぎるソファに浅く腰掛けていた。
自分の体重に合わせて形状を変えるハイテク素材のクッションは、まるで沼のように身体を沈み込ませようとする。ミラはそれに抗うように背筋を伸ばし、膝の上で両手を固く握りしめていた。
爪が掌に食い込む痛みだけが、ここが現実であるという唯一の確かな感触だった。
「――素晴らしいよ、ミラ」
対面に座る担当医が感嘆の声を漏らした。
彼は四十代半ばくらいの穏やかな相貌をした男性だった。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、一度も怒りや軽蔑の色を宿したことがないのだろうと思わせるほどに澄んでいる。
慈愛。
そう、彼は慈愛の塊だった。この都市が誇る福祉システムの最も人道的なインターフェース。
医師は二人の間に浮かび上がっているホログラムモニタを愛おしげに指先でなぞった。
そこには、ミラの身体から送信された膨大なライフログデータが羅列されている。
「見てごらん。この数値の美しさを」
医師は歌うように言った。
「睡眠導入までの時間は平均七分。レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルは教科書通りの黄金比を描いている。栄養摂取バランスはスコアA。ホルモンバランスも、セロトニンの分泌量も、すべてが『適正値』の範囲内に収まっている」
空中に浮かぶグラフは、どれも安定した緑色の線を描いていた。
警告を示す赤色はどこにもない。注意を示す黄色さえ見当たらない。
そこにあるのは健康で、幸福で、満ち足りた十七歳の少女のデータだった。
「君の年齢の平均値と比べても、君の健康状態は上位十パーセントに入っていると言っていい。素晴らしい回復ぶりだ」
医師は満足そうに頷き、ミラに向かって微笑みかけた。
それは「正解」を出した生徒に向ける教師の顔であり、故障箇所が直った機械を見る整備士の顔だった。
「⋯⋯はい」
ミラは短く答えた。
声が震えないように、腹に力を入れなければならなかった。
違う。
心の中で、音のない悲鳴が上がっていた。
何も治っていない。何も回復していない。
夜、ベッドに入って七分で意識を失うのは安眠しているからではない。日中、生きているふりをするだけで精魂尽き果てて、脳が強制シャットダウンしているだけだ。
食事が喉を通るのは、それが「義務」だからだ。栄養剤を混ぜられたペースト状の食事を、味もわからぬまま胃袋に流し込んでいるに過ぎない。
喉の奥に、鉛が詰まっているような感覚があった。
冷たくて、重くて、錆びついた鉛の塊。
それが気道を塞いでいるせいで息を吸っても酸素が肺の半分までしか届かない気がする。常に薄いビニール袋を被せられているような膜越しの窒息感。
毎朝、目が覚めるたびに絶望する。
また朝が来てしまったことへの恐怖。
天井の白い模様を数えながら、身体を起こすためだけに一時間も葛藤しなければならない重力。
胸の真ん中に開いた風穴から、生きるためのエネルギーが砂時計のようにさらさらとこぼれ落ちていく感覚。
でも、それらはデータには映らない。
端末(デバイス)が検知しない苦しみは、この都市では「存在しないもの」として扱われる。
「先生」
ミラは意を決して、鉛のような喉を震わせた。
「あの⋯⋯まだ、時々⋯⋯息が、苦しくなるんです。朝、起き上がれない時もあって⋯⋯胸のあたりが、すごく重くて⋯⋯」
医師は眼鏡の位置を直し、困ったような、しかしあくまで優しさを崩さない表情で首を傾げた。
「ふむ。苦しい、か」
彼は手元の端末を操作し、さらに詳細なデータを呼び出した。
「安心しなさい、ミラ。心拍数も血圧も、酸素飽和度も正常だ。呼吸器系に炎症反応は見られない。君が感じている『重さ』というのは、おそらく一時的な気分の揺らぎ、あるいは⋯⋯そうだな、生理周期に伴う軽微な不調の範疇だよ」
否定。
明確な言葉による拒絶ではない。
「君の感覚は間違っている」という、データによる優しく、そして絶対的な否定だった。
「データは嘘をつかないんだよ、ミラ。君の身体は君自身よりも正直だ。君は健康だ。安全だ。どこも壊れていない」
医師の言葉は、真綿で首を絞めるようだった。
どこも壊れていない。
それが事実なら、この苦しみは何なのだろう。
数値上は幸福で健康なはずの自分が、なぜ今すぐにでも消えてしまいたいと願っているのだろう。
もし、どこかに腫瘍があればよかった。
数値が真っ赤に染まっていればよかった。
そうすれば「苦しい」と堂々と言えたのに。
正常な数値はミラの逃げ場を塞いでいく。
「苦しいのは、君の気のせいだ」
「治らないのは、君の甘えだ」
緑色に輝くグラフが、そう宣告しているように見えた。
ミラの左手首に嵌められた黒いバンド――ライフログ端末が、軽快な電子音を立てて振動した。
空中に、小さなポップアップウィンドウが表示される。
医師との会話中であっても、システムは容赦なく介入してくる。
【推奨行動(レコメンド):気分の改善】
無機質なフォントが、今のミラに最適な「正解」を提示する。
♪ 散歩:中庭を15分歩きましょう(セロトニン活性化・幸福度+5予測)
♪ 音楽:『森のせせらぎ(α波誘導)』を再生しますか?
★ 笑顔:口角をあと3ミリ上げると、脳が喜びを認識します
医師はその表示を覗き込み、我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「ああ、見てごらん。システムもそう言っている。君に必要なのは少しの運動とリラックス、そして笑顔だ」
医師は立ち上がりミラの肩に手を置いた。その手は温かく、乾燥していて、不快なほどに頼もしかった。
「システムは、膨大な市民データから導き出された『最適解』を知っている。君一人で悩むより、ずっと賢いんだよ。⋯⋯ほら、書いてある通りにしてみようか。口角を上げてごらん?」
ミラは膝の上の拳をさらに強く握りしめた。
爪が皮膚を裂きそうだった。
笑いたくなどない。
今すぐ叫びだしたい。この白い部屋を泥で汚したい。この完璧な端末を壁に叩きつけて壊したい。
けれど、そんなことをすれば自分は「治療が必要な異常者」として、もっと深い隔離病棟へ送られるだけだ。
ここでは「不幸」は罪であり、「改善しないこと」は悪徳なのだ。
医師は待っている。
ミラが「正解」を選ぶのを、信じて疑わない目で待っている。
「⋯⋯他の患者さんたちはね」
ミラが動かないのを見て、医師は諭すように言葉を継いだ。声のトーンが少し下がる。それは教育者が出来の悪い生徒を導く時の声音だった。
「この推奨プログラムに従って、平均三週間で社会復帰しているんだ。⋯⋯ミラ、君はもう入所して二ヶ月になる。データは完璧なのに、主観的な気分だけが改善しないというのは⋯⋯少し、頑固すぎるんじゃないかな?」
平均値。
三週間。
頑固。
その言葉が、ミラの心臓に棘のように突き刺さる。
そうだ。みんなできることが私にはできない。
みんなが救われる方法で私だけが救われない。
それはシステムが悪いのではない。医師が悪いのでもない。
その優しさを受け入れられない、欠陥品である私が悪いのだ。
――私が、間違っている。
その思考に至った瞬間、ミラの中で何かが諦めと共に崩れ落ちた。
抵抗をやめれば楽になれる。
心を殺して、身体だけをマニュアル通りに動かせば彼らは満足してくれる。
ミラは鉛の詰まった喉を無理やり開き、顔面の筋肉に信号を送った。
頬を引きつらせ、唇の両端を吊り上げる。
眼の奥が熱く、涙が出そうになるのを必死に飲み込む。
端末が求めた「あと三ミリ」の笑顔。
鏡を見なくてもわかる。それはきっと、ひび割れた能面のような顔をしているだろう。
「⋯⋯はい。やってみます。ありがとうございます、先生」
掠れた声で、ミラは言った。
その瞬間、端末から「ピロリン」と軽やかなファンファーレが鳴った。
【目標達成:笑顔 デイリーミッションクリア!】
空中に鮮やかな花火のエフェクトが散り、ポイント加算を知らせる数字が躍る。
医師は目を細め、心底安堵したように息を吐いた。
「そう、その笑顔だ。とても素敵だよ、ミラ。君はもう大丈夫だ」
大丈夫。
この世界で最も残酷な言葉。
「今日のカウンセリングはこれで終わりにしよう。推奨通り、中庭を散歩してくるといい。きっと気分が晴れるはずだ」
医師に見送られ、ミラは逃げるように部屋を出た。
自動ドアが滑らかに閉まる。
背後から、医師がカルテに「経過良好」と打ち込む音が聞こえたような気がした。
廊下もまた、果てしなく白かった。
磨き上げられた床に自分の顔が映っている。
ミラは壁に手をつき荒い息を吐いた。
酸素が足りない。
ここは清潔で安全で善意に満ちた場所なのに、まるで真空の宇宙に放り出されたかのように息ができない。自分の呼吸音だけが水槽のポンプのように、耳障りなほど大きく響いていた。
廊下を歩く足取りは、水底を這うように重かった。
擦れ違う人々は皆、穏やかな顔をしている。彼らもまた、ここの入居者――社会的な不具合を抱えた「患者」たちのはずだ。
それでも彼らの表情には悲壮感がない。パステルカラーの柔らかいルームウェアに身を包み、談笑しながら歩く姿は、高級ホテルの宿泊客のようにさえ見える。
「こんにちは、ミラさん」
不意に声をかけられ、ミラはびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、三十代くらいの女性がにこやかに手を振っていた。入所した時期が近く、何度かグループワークで一緒になった女性だ。
彼女の左手首にある端末は、鮮やかな緑色に光っている。
「いいお天気ですね。これからお散歩?」
「あ⋯⋯はい、そうです」
「えらいわね。私もさっき歩いてきたの。外の空気を吸うと、やっぱり数値が良くなるわよ」
女性は自分の端末を見せつけるように掲げた。そこには「ストレス値:極低」「回復傾向:順調」という文字が躍っている。
彼女は、かつて過労による適応障害でここに運ばれてきたと聞いていた。だが今の彼女は、新品の電池に入れ替えられた玩具のように活力に満ちている。
「私ね、来週には退所できることになったの」
「⋯⋯え」
「カウンセラーの先生が太鼓判を押してくれたわ。もう大丈夫、社会に戻ってもやっていけるって。このセンターのおかげね。正しい生活リズムと、前向きな思考。それが一番の薬だったのよ」
彼女は誇らしげだった。
システムの正しさを証明した勝者。
不良品から良品へと再生された、模範的な市民。
「ミラさんも、焦らず頑張ってね。素直にプログラムに従っていれば、絶対に良くなるから」
善意の塊のような励まし。
それはミラの胸に、鋭利な刃物となって突き刺さった。
素直に従えば良くなる。
その言葉の裏側には「良くなっていないお前は、素直ではないからだ」という断罪が張り付いている。
ミラは反射的に口角を引き上げた。訓練された笑顔だ。
「⋯⋯はい。おめでとうございます、よかったですね」
「ありがとう! じゃあね、お大事に」
女性は軽やかな足取りで去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ミラの笑顔は溶けるように崩れ落ちた。
置いていかれる。
ベルトコンベアの上で、自分だけが検品に弾かれ、廃棄処分の箱へと転がり落ちていくような感覚。
なぜ、みんなできるのだろう。
なぜ、みんな「治る」のだろう。
私と彼らの違いは何なのだろう。
努力? 才能? それとも魂の構造そのものが欠陥品なのだろうか。
端末が再び震えた。
【推奨行動:散歩の開始時間が過ぎています】
急かされるようにミラは重い足を引きずり、自動ドアを抜けて中庭へと出た。
そこは、楽園のようだった。
輝くような芝生。色とりどりの花々。小川のせせらぎ。
すべてが計算された美しさで構成されている。空調管理された屋内とは違い、ここには微かな風が吹き、花の香りを運んでくる。
だが、ミラにはその風景が、精巧に作られたジオラマの中に迷い込んだようにしか思えなかった。
鮮やかすぎる色彩が視神経を刺す。
楽しげなさえずりを繰り返す小鳥たちさえ、スピーカーから流れる合成音声のように聞こえる。
ベンチでは数人の入居者が読書をしたり、日光浴をしたりしている。誰もが平穏そのものだ。
この空間にミラの居場所など一センチたりとも存在しなかった。
ミラは透明な壁に囲まれている気分だった。
世界はこんなにも美しいのに、自分だけが薄汚れたガラスの内側に閉じ込められ、その美しさに触れることができない。
息を吸うたびに、肺の中が冷たい泥で満たされていく。
一歩、また一歩。
端末の歩数計が進む。
ただ歩くだけのことが、なぜこんなにも苦行なのだろう。
重力がおかしいのではないかと疑いたくなるほど、身体が鉛のように重い。地面が泥沼のように足にまとわりつく。
(⋯⋯つらい)
ふと、本音が漏れそうになった。
けれど、誰に言えばいい?
医師に? 「データは正常だ」と言われるだけだ。
家族に? 「頑張れ」と励まされるだけだ。
他の入居者に? 「考えすぎだ」と憐れまれるだけだ。
この世界には「理由のない苦しみ」を受け入れるポケットが存在しない。
原因がなければ解決策もなく、解決策がない問題は「存在しない」ことにされる。
だからミラは、透明人間のように透明な苦痛を抱えて、ただ歩くしかなかった。
一五分。
永遠のように感じられたノルマを達成すると、端末がまたファンファーレを鳴らした。
【ミッションコンプリート! 精神安定ボーナスが付与されました】
【現在の気分はどうですか? 記録してください】
空中に浮かぶ選択肢。
◎ 最高
○ 良い
△ 普通
「悪い」「苦しい」「消えたい」という選択肢は、最初から用意されていなかった。ネガティブな言葉を選ぶこと自体が、治療の妨げになるという思想設計なのだろう。
ミラは震える指で、△ 普通を押した。それが精一杯の抵抗であり、最大の嘘だった。
ベンチに座り込む。
空を見上げる。
青い。突き抜けるように青い空だ。
この都市を覆う巨大なドーム状の天蓋に投影された、完璧な青空。
雲ひとつないその空が、ミラの眼球を焼き尽くす。
「⋯⋯あ」
一滴、涙がこぼれた。
それは悲しみの涙ではない。
容量オーバーを起こした容器から、中身が漏れ出しただけの生理現象。
私は、この世界のバグだ。
幸せになるための機能がすべて揃ったこの「エデン」において唯一、幸せになれないエラーコード。
私がここにいること自体が、この完璧な世界の景観を損ねている。
白いシーツに落ちた、黒いシミのように。
消さなければ。
修正しなければ。
あるいは――廃棄しなければ。
自責の念が巨大なプレッシャーとなってミラの全身を押し潰す。
呼吸が浅くなる。
ヒュー、ヒュー、と喉が鳴る。
過呼吸の発作ではない。ただ、空気が異物のように感じられて、吸い込むことができないのだ。
逃げたい。
この「正しさ」から。
「善意」から。
「回復」という義務から。
どこか、誰も見ていない場所へ。
データが届かない場所へ。
数値も、評価も、励ましもない、暗くて静かな場所へ。
ミラは弾かれたように立ち上がった。
端末が【休息推奨:心拍数が上昇しています。深呼吸を――】と警告を発するのを無視して、中庭の奥へと走った。
整備された遊歩道を外れ、立ち入り禁止の看板が立つ茂みの向こうへ。
監視カメラの死角となる、施設の裏側へ。
枝が頬を掠め、泥が靴を汚す。
その痛みと汚れだけが、今のミラにとっては救いだった。
完璧な世界に刻まれた、小さな傷。
そこに行けば、息ができるかもしれない。
ミラは光を背にして、影の中へと駆け込んでいった。
そこが、物語の本当の始まりの場所だとは知らずに。
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