RECAST 〜空っぽの器に憑依した僕は借り物の命の「理由」を探す〜

安喰美蓮

プロローグ

病室の窓は、いつも薄い光しか入ってこなかった。

 冬が近づくにつれて空気は乾き、消毒液の匂いが前より強くなった気がした。

 そんな匂いにも、硬いベッドにも、点滴のリズムもすっかり気にならなくなってしまった。

 病名は長く、説明されてもよく分からなかった。

 ただひとつ確かなのは、治らないという事実だけだった。

 医者は「進行を遅らせることしかできない」と言った。

 両親は泣いていた。

 僕はただ「泣きたいのはぼくの方だ」なんて思いながら静かにうなずくことしかできず、そんなことを思う僕自身がいやになった。


 僕の人生の大半はそんな鬱屈とした病院のベッドの上で、気づけば外の世界の時間と自分の時間がまったく合わなくなっていた。

 友達の話題も、季節の行事も、将来の夢も、全部どこか遠い国のことみたいだった。

 僕には未来という言葉が、どうも現実のものとして想像できなかった。

 しかし、だからだろうか、いつの間にか死ぬこと自体はそこまで恐ろしくなくなっていた。

 延々と続く痛みや息苦しさから解放されるのなら、それもいいのかもしれないとさえ思えた。

 僕が死んでも、世界は何も変わらない。

 誰かの役に立てた記憶も、必要とされた実感もほとんどなかった。

 僕がここに確かにいた証、それがないことが妙に寂しかった。


 そんな僕のもとに、その研究者はやって来た。


「ご家族から了承いただけるなら、少しお話をしても大丈夫でしょうか、白石ノアさん」


 “神経活動の記録に関する臨床研究”という聞き慣れない名前で説明されたそれは、被験者の脳の反応を、特殊なデバイスで収集する試みだという。

 差し出された名刺には僕の入院している病院と同じ名前を冠した大学名が記されていた。

 白衣の袖は少し擦り切れていて、寝不足なのか目の下には化粧で隠しきれない隈があるように見えた。


「あなたの負担にならない範囲でお話しします」


 彼女は椅子を引き寄せ、丁寧に座る。

 声は穏やかで、どこか慎重さがあった。


「私たちの研究では、人の脳がどんな“動き方”をしているかを記録し、その特徴を量子コンピュータに保存する試みをしています。

 “いまのあなたの脳の活動”を別の場所に写す、そんなイメージです」


「……意識が、そこに行くということですか?」


「意識が移る、という表現は正しくありません。

 あなたの思考の“癖”や“流れ”を、別の媒体に残せるかもしれない。

 それだけです」


 僕はしばらく黙った。

 研究者は続けた。


「もちろん、これは完全なものではありません。

 連続性が保たれるわけでも、あなたという人間を再現できるわけでもない。

 ただ……消えてしまうものが、ほんの少しだけ残るかもしれない。

 そういう性質の研究です」


 その言葉は、不思議なほど胸に響いた。

 大きな希望でもなく、劇的な約束でもない。

 ただの“可能性”。

 でも、それが欲しかった。


「……僕は、その“残るかもしれない”に賭けたいです」


 気づくと、そう言っていた。

 研究者は静かにうなずいた。


 研究者の説明を聞いたあとも、僕の生活は何も変わらなかった。

 ベッドに横になり、点滴の滴る音を聞き、淡い光の差す窓を見る。

 ただ、胸の奥にほんの少しだけ“どこかへ繋がる糸”のようなものが残った。

 意識が残るかもしれない——その可能性が。

 実験は数日おきに繰り返された。

 ベッドの上で姿勢を整え、軽量のヘッドギアを装着される。

 医療機器というより、ただの計測装置に近い形だった。

「少し冷たいですよ」

 看護師の手がヘッドギアの位置を調整する。

 柔らかいスポンジが額に触れ、わずかな違和感が広がる。

 研究者はノート端末を膝に置き、淡々と準備を進めた。

「今日は少し長めに記録を取りますが、つらかったら言ってください」

「……はい」

 装置が起動すると、耳の奥でかすかに電子音が鳴った。

 脳波計と大差ないはずの機械なのに、どこか“内側を覗かれている”ような気がした。

 痛みはなかった。

 ただ、頭の裏側に小さな圧がかかるような重さがあった。

「微弱な電流が流れるので、少し負荷が出るかもしれません。つらかったら遠慮なく言ってください。無理はしなくて大丈夫です。」


 研究者は優しく言った。

 その声の調子が、僕の不安を吸い取るように穏やかだった。

 数日が過ぎ、僕の体はさらに弱っていた。

 流動食さえほとんど口にできず、点滴で栄養を補給する。

 車椅子に座るのさえも苦しくて、ほとんどベッドから動けなかった。

 けれど不思議と、恐怖は薄かった。

 全身が冷えていく感覚よりも、「あと何回実験できるのか」というほうが気になった。

 こんな枯れ枝のような男でもなにか残せるかもしれないという、たったそれだけが僕を“終わり”に対する恐怖から救ってくれる。

 だから、担当医が心配そうにするのを見なかったことにして、僕はその研究への協力をなによりも優先した。


「……今日が、最後のデータ採取になると思います」


 僕は小さくうなずく。

 そうだろう。予定されていた回数ぴったりだ。

 仮にもしそうでなくても、月に一度のことだ。どちらにせよ“次”はきっと訪れない。自分がいちばんよくわかっている。


「ノアくん……無理は、しないでください」


「大丈夫です。お願いします」


 装置が装着される。

 いつもより慎重な手つきだった。

 視界がゆっくりと白み始める。

 病室の蛍光灯が滲んで見えた。

 我ながらよくもった方だと思う。


「呼吸はゆっくり……はい、そのまま」


 研究者の声が、遠く近く揺れる。

 胸が苦しい。

 肺が動くたびに、どこかでかすかに鈍い痛みが走った。

 でも、それよりも心の奥の糸のほうが強く感じられた。

 ここから何かが“別の場所へ繋がる”ような、そんな直感にも似た感覚。


「……反応、ゆっくりでいい。無理に考えをまとめようとしなくて大丈夫です」


 彼女の声は落ち着いていたのに、その目はどこか不安げだった。

 視界が、さらに淡くなる。

 音が水の底に沈むように遠ざかる。

 思考と言葉の境界が崩れ、何が自分なのか分からなくなっていく。


「大――夫、あなたの――は、ここにい――から……」


 研究者の声が、途切れ途切れに聞こえた。

 何か大事なことを言おうとしていたような気がする。

 でも、もう僕はその言葉を受け止める余力がなかった。

 まぶたが落ち、世界が薄い膜の向こうへ滑っていく。

 身体の輪郭が緩み、指先の感覚が消えていく。

 痛みも苦しさもなく、ただ、静かに——。


(……あぁ、これが終わりか)


 きっと彼女には迷惑をかけてしまう。

 それだけが心残りだった。

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