第7話
◆◆第七章◆◆
誰のための死か
そのニュースが流れた瞬間、事務所の静寂は死の重圧に塗りつぶされた。
「嘘……。そんな、はずは……」
澪の手から愛用の鉛筆が滑り落ち、板張りの床に乾いた音を立てて転がる。モニターに映し出されたのは、神奈川県鶴見にある薄汚れた雑居ビルの外観。パトカーの赤色灯が、深夜の雨に濡れた壁を不気味に赤く染めていた。
《——本日午後、無職の吉田蘭さん(42)が遺体で発見されました。現場の状況から薬物の過剰摂取とみられ——》
「あいつだ」
香坂恒一は、無機質な女子アナの声を遮るように低く呟いた。画面を凝視する彼の瞳は、冷徹な計算機のような光を宿している。
「香坂さん、これって……!」
城崎文也が椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。その端正な顔は蒼白になり、唇が細かく震えている。
「俺たちが……俺の言葉が、彼女を追い詰めたんですか!? 『浄化だ』なんて言ったあの言葉が、彼女を死に追いやったのか……!」
「座れ、城崎。落ち着け」
香坂は振り返りもせず、冷たく言い放った。
「佐伯が逮捕され、本部の資産が凍結された直後だ。鶴見支部という隠し金庫の管理人が死に、中身が空になる。これはただの悲劇じゃない。大きな収穫の一部だ」
「そこじゃない。現実に彼女は死んでるんだ! 未来なんて……救いなんて、どこにもなかったじゃないか!」
「救いなら、あったよ」
澪が、震える声で会話に割り込んだ。彼女は床に落ちた鉛筆を拾い、力任せにスケッチブックに新しい線を叩きつけている。
「城崎さんは彼女を救おうとした。彼女は、新しい道を見つけた。私が視た未来だって、あんな冷たい場所での終わりじゃなかった……。誰かが、彼女の運命の糸を無理やり断ち切ったの。……黒い、大きな鋏を持った誰かが」
深夜。錦織誠二のオフィス。重厚な革張りの椅子の向こう側で、巨獣は苦い顔で太い煙草を燻らせていた。
「……俺じゃねえぞ、香坂。先に釘を刺しておく」
錦織は、デスクの上に置かれた朝刊の死亡記事を灰皿代わりに踏みつけた。
「分かっています。錦織さんは合理主義者だ。わざわざ自分の所有するビルで、警察を招き入れるような派手な殺し方はしない」
香坂は錦織の正面に座り、真っ直ぐにその眼光を跳ね返した。
「フン、相変わらず可愛げのない男だ」錦織は煙を吐き出す。「あの女、吉田蘭は俺に接触してきた。『錦織さんやイザベラより安い、いいルートがある。そっちに変える』とな。佐伯の会がつぶれたのを俺のせいにしやがった挙句、別の飼い主を見つけやがった」
錦織の瞳に、本物の殺気が宿る。
「だが、返品の回収に踏み込んだ時には、俺のビルから金も薬も消えていた。俺のメンツは丸潰れだ。いいか香坂、このツケは高くつくぞ。あの女を操っていたのは、佐伯じゃねえ。もっと別の『何か』だ」
香坂は、その足でイザベラに国際電話を入れた。
『あら、日本の誠実なビジネスマン。お悔やみを言いに電話してきたの?』
スピーカー越しでも分かる、挑発的な芳香。イザベラの声は、死すらも一つの娯楽として楽しんでいるかのようだった。
「イザベラ、単刀直入に聞く。吉田蘭を消したは君か?」
『心外ね。裏切り者は殺すより、生かして泳がせる方が有益。……でも恒一、いい? あなたの周りで、何かが収穫を始めているわ。あなたが占い師ごっこで集めた信者たちの依存を、根こそぎ奪い取ろうとする大きな口がね。……気をつけなさい。次は、あなたの隣にいる少女の番かもしれないわよ』
事務所に戻った香坂を待っていたのは、澪が描き上げた一枚の、おぞましい絵だった。
そこには、顔のない巨大な影が、城崎、錦織、イザベラの三人の背後に立ち、彼らの肩に手を置いて、チェスの駒のように操っている姿が描かれていた。そして、その影の足元には、事切れた吉田蘭。
「……姿は見えない。でも、確かにそこにいる」
澪の瞳は、今そこにある純粋な悪意を捉えていた。「そいつは混乱が欲しいだけ。組織が崩壊し、人が絶望し、最後に残っ純粋な金だけを啜って笑ってる。……香坂さん、私たちも食べられちゃう」
香坂は、静かに澪の頭を撫でた。その指先は驚くほど温かい。だが、口から出た言葉は、悪魔のそれだった。
「食べられるつもりはない。……むしろ、こちらから餌を撒いてやる」
「香坂さん!?」
「城崎、お前の仕事は終わっていない。明日から『聖域の会』の迷える羊たちに、新しい福音を説け。『佐伯を殺したのは、裏社会の闇だ。君たちが救われる唯一の道は、俺たちにすべてを委ねることだ』とな」
「そんな……そんなの、ただの詐欺じゃないか!」
「詐欺じゃない。……『信仰』の再構築だ」
香坂は冷徹に言い放ち、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。
「イザベラの流通網を利用し、彼女が吸い上げようとしている金を、途中で俺たちが掠め取る。錦織の暴力を使って、奴の逃げ道を塞ぐ。……澪、お前の目が必要だ。そいつが次にどこで口を開けるか、一点の曇りもなく視通せ」
香坂は、デスクに置かれた今や、500人弱の占い師を支配下に置く「占いの街」のなら、奴以上に汚れるまでだ。……救済が侵食に変わったのなら、俺たちがその侵食の王になる。……そうだろ?」
香坂の背後に、澪の描いた「顔のない影」とよく似た、だがもっと鋭く、もっと深い闇を纏った影が、静かに立ち上がっていた。
【『救済の侵食』 シーズン1:完】
『占いの街』救済の侵食 奈良まさや @masaya7174
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