第5話
◆◆第五章◆◆
分解の錬金術師
イタリア、ミラノ郊外。古いレンガ造りの香水工場の地下室は、地上の華やかな調香室とは無縁の、凍てついた実験室だった。
イザベラ・ロッセリーニは、白衣を纏い、鋭い目つきでフラスコを見つめていた。
そこにあるのは、新作のフレグランスではない。高純度の薬物を特殊な溶剤で液状化し、香料成分と分子レベルで結合させた「無臭の毒」だ。
「……完璧。これなら、どんな猟犬も鼻を鳴らさない」
彼女は独りごちた。見た目も、香りも、成分分析ですら最高級のベルガモットオイル。だが、目的地で彼女が触媒を加えれば、それは再び純白の結晶——致死の快楽へと分離される。
彼女は科学者であり、マフィアの物流を担う「分解の錬金術師」だった。
デスクの上のスマートフォンが、短く震える。国際電話。発信元は日本。
イザベラの唇が、艶やかに弧を描いた。
「…… Pronto(もしもし)」
『お久しぶりです、イザベラ。香坂です』
懐かしい声。だが、かつての誠実なサラリーマンの響きではない。もっと深く、澱んだ、だが力強い意志を感じさせる声。
「あら、日本の退屈なビジネスマン。まさか、また香料の輸入の話?」
『いいえ。今は別の仕事をしています。……形のないものを信じさせ、裏で価値を操作する。以前、あなたが私に勧めた「実利」を売る仕事ですよ』
イザベラは、フラスコの中の液体を揺らした。
「面白いわね、恒一。あなたが泥の中に手を突っ込む決意をしたというのなら、一度会ってあげてもいいわ。来週、新作発表会で日本へ行く。そこで、あなたの『覚悟』を証明して見せて。良い案件があるわ」
1週間後。
東京、青山の会員制バー。
重厚な革張りのソファに、イザベラは座っていた。彼女が放つ、甘く鋭い香水の匂いが、密閉された空間を暴力的に支配している。
香坂、澪、そして城崎。イザベラは、その三人を値踏みするように見つめた。
「……面白い顔ぶれね。特に、そこの彼女」
イザベラは、澪を射抜くような眼光で捉える。
「未来が見えるなんて、まるでルネサンス期の預言者ね。でも、この世界では『見えすぎる』ことは、自分を焼き尽くす呪いになるわよ」
澪は無言でスケッチブックを抱え直した。イザベラの瞳の奥に、人の命を数字でしか見ていない虚無の深淵を見たからだ。
ニヤけた城崎は、イザベラの日本語能力を楽しんでいるようだ。
「再会の挨拶はこれくらいにしましょう」
香坂が冷徹に切り出す。
「イザベラ、話というのは?」
「ええ、恒一」イザベラは細い煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「あなたが『正攻法』を捨てたというのなら、その証明をしてもらうわ。……標的は『聖域の会』。麻薬依存症患者を救済するNPOを装っているけれど、実態は私の流通網を荒らす害虫よ」
彼女はテーブルに、十字架のバッジをつけた男の写真を置いた。
「彼らは『浄化』と称して、私の顧客を奪い、粗悪な自社製品を売りつけている。……恒一、あなたの『占い』と『言葉』だけで、この偽善者の城を内部から腐らせ、自壊させて」
「自壊……」城崎が低く呟く。
「期限は一週間。成功すれば、私の持つグローバルな裏の流通網を、あなたのビジネスの『決済手段』として開放してあげる。……失敗すれば、その時は」
イザベラは身を乗り出し、香坂の顔にゆっくりと煙を吹きかけた。
「あなたのその綺麗な瞳を、二度と開かないように『分離』してあげるわ」
香坂はその煙を避けることもなく、不敵に微笑んだ。
「……安い報酬ではありませんね。いいでしょう、その挑戦、買い取ります」
「ですが、1ヶ月に期限はしてください。カルト集団の洗脳度合いによりますが、なんとかなるでしょう」
香坂恒一は、もう迷わなかった。イザベラが差し出した極彩色の「毒」を、自らの武器として飲み込む覚悟を決めていた。
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