【AI作品】音の消える場所

月丘ちひろ

音の消える場所

 湯本が倒れたのは、駅の改札を抜けて三歩目だった。

 終電の案内が流れ、構内の照明が一段落とされた直後だった。


 冷たい空気を吸い込んだ瞬間、胸の奥で何かが軋み、視界が一段暗くなった。


 床に手をつこうとしたが、肩にかけた鞄の重さに引かれて体が傾いた。

 鞄の中では、ノートパソコンが硬い感触を返していた。


 気がついたときには、処置室の天井を見ていた。

 蛍光灯の光が、やけに白い。


「過労です。今日はもう帰りなさい」


 医師はそう言って、腕時計に一瞬だけ目を落とした。

 湯本のスマートフォンには、未送信の業務連絡がいくつも残っている。


 点滴を外され、夕方の外へ出る。

 吐いた息が白く、すぐにほどけた。

 空からは、細かい雪が、音もなく落ちてきていた。


 会社には連絡が入ったらしいが、誰からも電話は来なかった。


 帰宅途中、電車を乗り換える気力がなくなり、湯本は途中の駅で降りた。

 ホームの端には、溶けきらない雪が残っている。

 踏みしめると、靴底で小さく鳴った。


 改札を出ると、山の方角を示す温泉の案内板が立っていた。

 矢印の先は、白く霞んでいる。


 考える前に、そちらへ歩き出していた。

 雪は次第に大きくなり、肩に触れては溶けた。


 宿は小さく、屋根の縁に雪を乗せていた。

 日帰り入浴の札が、白い背景に浮いて見える。


 暖簾をくぐると、外とは違う湿った空気と、硫黄の匂いが鼻に届いた。

 受付で鍵を受け取り、畳の廊下を歩く。

 足音は畳に吸われ、ほとんど響かなかった。


 脱衣所でロッカーの前に立つ。

 指先がかじかみ、シャツのボタンを外すのに時間がかかった。

 腕時計を外し、棚に置く。画面は、日付が変わる寸前で止まっている。


 服を脱ぎ終え、ふと鏡を見る。


 そこに映っていたのは、雪にさらされたような男だった。

 頬は落ち、目の下に影が溜まっている。

 肩は内側に丸まり、椅子に長く座り続けた名残が残っていた。


 湯本はしばらく動かなかった。

 泣いているようにも見えたが、涙は出ていない。

 胸の奥に、解けきらない雪が残っている気がした。


 タオルを手に取り、洗い場へ向かう。

 床はひんやりとして、腰を下ろすと膝がきしんだ。

 シャワーをひねると、最初は冷たい水が背中を打ち、思わず息を止める。

 遅れて湯に変わり、肩が少し下がった。


 体を洗い、立ち上がる。

 一瞬、視界が揺れた。


 湯船の縁に手をかける。

 立ちのぼる湯気が、冷えた頬に触れる。

 足先を入れると、雪解けのように、熱がゆっくりと上ってきた。


 肩まで浸かった、その瞬間だった。


「ぅぅぅぅ……あ゛ぁぁ……」


 低く、伸びやかな声が、湯気の中に広がった。


 湯船の端に、白髪の男がいた。

 目を閉じ、眉をゆるめ、湯に沈み込みながら声を出している。

 冷えきった体が、芯からほどける音だった。


 湯本は湯面を見つめた。

 胸の奥に積もっていたものが、少しずつ溶けていく。


 おじさんは、気持ちよく鳴いている。

 自分は、声にならないまま、静かに泣いている。


 肩が、わずかに震えた。

 湯の中だから、雪の日だから、誰にも気づかれない。


 しばらくして、露天風呂への扉に気づいた。

 湯気の向こうに、白い気配がある。


 おじさんが先に立ち上がり、何も言わず外へ出ていく。

 湯本も、少し遅れてあとに続いた。


 扉を開けた瞬間、夜の冷気が肌を刺した。

 雪はやんでいたが、露天の縁や岩の上に、白く残っている。


 湯に浸かると、内湯よりも熱が強く感じられた。

 外気と湯の差で、体の輪郭がくっきりと浮かび上がる。


「……ぅぅ……あ゛ぁ……」


 おじさんの鳴き声が、雪を被った庭へと流れていった。

 吸い込まれるように、遠くまで消えていく。


 湯本は空を見上げた。

 雲の切れ間から、わずかな星がのぞいている。

 雪のせいで、夜がいつもより明るかった。


 胸の奥が、静かに痛んだ。

 泣いているのだと、ようやく分かった。


 湯は熱く、外は冷たい。

 その境目に、自分がいる。


 桶で湯をすくい、肩にかける。

 湯が落ちる音が、雪に吸われ、澄んで響いた。


 湯の中で、名刺のことを思い出した。

 財布の奥に入れっぱなしの一枚。

 角はまだ鋭く、折り目もない。


 向こうでは、おじさんがもう一度、満足そうに鳴いている。

 その声には、寒さも、迷いも残っていなかった。


 湯から上がり、脱衣所で服を着る。

 体の芯には、まだ温かさが残っている。


 ポケットに指を入れると、紙の感触があった。


 名刺だった。


 取り出して、少しだけ見つめる。

 整った文字が、雪明かりを含んだ室内灯の下で白く浮かぶ。


 湯本は名刺を二つに折った。

 紙が、乾いた音を立てた。

 それだけだった。


 外に出ると、雪はすっかりやみ、足元が白く光っていた。

 帰りのバスの中で、湯本は短いメールを送った。

 送信音が鳴り、画面が消える。


 布団に入ると、まだ体の奥に湯の温かさが残っている。

 露天で聞いた鳴き声が、雪の夜と一緒に耳の奥で静かに反響した。


 湯本は目を閉じ、ようやく涙を流した。


 それは、雪に覆われた一日が、静かに終わる合図だった。

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【AI作品】音の消える場所 月丘ちひろ @tukiokatihiro3

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