第7話(最終話) 『さよならと、そして自由』


 エレベーターが上昇するにつれて、エントランスからのノイズ。

 ミナの泣き声とゲンゾウ氏の怒号は遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。


 3階に到着し、廊下を歩く。


 自分の部屋の前に立ち、鍵を開ける。

 カチャリ、という金属音が、これほど心地よく響いたことはない。


 部屋に入り、しっかりと施錠する。

 チェーンロックもかけた。


 これで、俺の城(サンクチュアリ)は完全に守られた。


「……終わった」


 静寂が満ちた部屋で、俺は独りごちた。


 不思議なほど、寂しさはなかった。


 5年間の交際。その時間は決して短くない。

 だが、最後の数日間で見せつけられた「本性」があまりにも強烈すぎて、未練という感情データは跡形もなく上書き消去(オーバーライト)されていた。


 もし、あのまま結婚していたらどうなっていただろう。


 週末のたびに実家に呼び出され、理不尽な説教を聞かされる日々。

 俺が稼いだ金で買ったものを「安物」と罵られ、それをミナが「お父さんのために我慢して」と笑って流す地獄のような家庭。


 想像するだけで背筋が凍る。


 俺は危うく、人生というOSに致命的なウイルス(マルウェア)をインストールするところだったのだ。


 インストール直前でエラー(手土産廃棄事件)が発生したことは、むしろ奇跡的な幸運だったと言える。


「よし、祝杯だ」


 俺は冷蔵庫から、とっておきのプレミアムビールを取り出した。


 プルタブに指をかけ、力を込める。


 プシュッ!


 軽快な音が、新しい人生の開幕を告げるファンファーレのように響いた。


 グラスには注がない。缶のまま、グビリと煽る。

 キレのある苦味と炭酸が喉を駆け抜け、体の隅々にまで染み渡っていく。


「っあー……! 美味い!」


 思わず声が出た。


 先日の「やけ酒」とは違う。

 これは正真正銘の「勝利の美酒」だ。


 自由だ。


 誰の機嫌も伺わなくていい。

 週末をどう使おうが、何を食べようが、誰にも文句は言われない。


 俺の人生の管理者権限(アドミニストレータ)は、完全に俺の手元に戻ってきたのだ。


 ソファに寝転がり、スマホを操作する。

 ブロックリストを確認する。


 そこには『元婚約者』と『その父』の名前がある。


 俺は迷わず「削除」を選択した。

 これで、彼らが俺の人生に関与するルートは永遠に絶たれた。


 彼らはこれから、崩壊した関係の中で、互いに責任をなすりつけ合いながら生きていくのだろう。

 だが、それはもう別の世界の話だ。


 俺はふと思い立ち、以前登録だけして放置していた婚活アプリのアイコンをタップした。


 プロフィール画面が表示される。

 『30歳、SE、年収〇〇〇万、未婚』。


 条件は悪くないはずだ。

 そして何より、今の俺には「地雷を見抜く目」という最強のスキルが備わっている。


「さて、と」


 俺は更新ボタンを押し、新たな出会いの海へと漕ぎ出した。


 窓の外には、どこまでも広がる東京の夜景が輝いている。


 俺の未来は、この夜景のように明るく、そしてどこまでも自由だ。


(了)

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誠意を見せろ』と高級酒をゴミ箱に捨てた婚約者の父。隣で『謝って』と泣く彼女に、俺は静かに損切り(婚約破棄)を告げた。 品川太朗 @sinagawa

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