第2話 『手土産という誠意』



 プロポーズから一週間。

 俺はシステムエンジニアとしての情報収集能力をフル稼働させ、その日のための準備(セットアップ)を進めていた。


 ミナの父親、ゲンゾウ氏は日本酒に目がないらしい。

 しかも、ただの酒好きではなく「本物しか認めない」と豪語するタイプだという。


 俺は都内の百貨店や専門店を回り、ある一本の酒を入手した。


「純米大吟醸『瑞兆(ずいちょう)』の古酒。木箱入り」


 一本三万五千円。


 入手困難な銘柄で、酒好きならラベルを見ただけで目の色を変える代物だ。

 正直、ただの挨拶の手土産としては破格すぎるかもしれない。


 だが、ミナがあれほど「誠意」と繰り返していたのだ。

 ここでケチって印象を悪くするリスク(損失)を考えれば、必要な投資(コスト)だと言える。


 それに加えて、和菓子も用意した。

 銀座に本店を構える老舗『白露(しらつゆ)』の最中(もなか)だ。

 ここも午前中には売り切れてしまう名店で、俺は週末の早朝から並んで手に入れた。


 完璧だ。


 誰に見せても恥ずかしくない、最上級の敬意の形。


「すごい……! これなら絶対大丈夫だよ、ケイスケ!」


 訪問前日、手土産のリストと写真を見せると、ミナは初めて心からの笑顔を見せた。


「『瑞兆』なんて、お父さん憧れてたお酒だもん。これを見れば、お父さんもケイスケがどれだけ私のことを大事に思ってるか、わかってくれるはず」

「そう言ってもらえると、並んだ甲斐があったよ」

「うん。あと、当日のスーツなんだけど、紺色だよね? ネクタイは派手すぎないやつね。靴は磨いた?」


 ミナはまるで重要なプレゼン前のマネージャーのように、俺の身だしなみを細かくチェック(デバッグ)していく。


 彼女の必死さは少し異常なほどだったが、俺はそれを「結婚への真剣さ」だと好意的に解釈していた。

 彼女も板挟みで苦労しているのだろう。

 俺が完璧な振る舞いをすれば、彼女も安心できるはずだ。


 ◇


 そして、訪問当日。


 雲ひとつない秋晴れの日曜日。

 俺たちはミナの実家の前に立っていた。


 古いが手入れの行き届いた一軒家。

 門構えは立派で、家主の性格を表しているかのようだ。


「……よし」


 俺はスーツの襟を正し、両手に持った紙袋の持ち手を握り直した。


 重みのある酒瓶と、格式高い和菓子。

 これが俺の「誠意」だ。

 この5年間、ミナと築き上げてきた関係を、彼女の両親に認めてもらうための通行手形。


「緊張してる?」


 ミナが小声で聞いてくる。顔色が少し悪い。


「まあね。でも、やるべき準備は全部やった。あとは当たって砕けろ、じゃないけど、誠心誠意話すだけだよ」


 俺は努めて明るく答えた。


 大丈夫だ。

 俺は社会人として恥ずかしくないキャリアを積んできたし、今日の準備に抜かりはない。


 どんなに厳格な父親だとしても、ここまで敬意を払って挨拶に来た相手を、無下に扱うはずがない。

 それは人間関係の基本的なプロトコルだ。


「……じゃあ、押すね」


 ミナが震える指でインターホンを押す。

 ピンポーン、という電子音が鳴り響く。


 数秒の沈黙の後、ガチャリと重い解錠音がして、玄関の扉が開いた。


 そこには、不機嫌を絵に描いたような顔をした初老の男――ゲンゾウ氏が立っていた。


「……遅い」


 それが、俺たちに向けられた第一声だった。


 時計を見る。約束の時間は14時。

 現在は13時58分。

 早すぎず、遅すぎず、定刻通りの到着のはずだ。


 だが、ゲンゾウ氏は俺の顔を見ることもなく、吐き捨てるように言った。


「大事な話があるなら、10分前に来て待機するのが礼儀だろうが。最近の若造は時間の使い方も知らんのか」


 いきなりの先制攻撃。


 隣でミナが「ご、ごめんなさいお父さん!」と反射的に頭を下げる。

 俺は一瞬言葉に詰まったが、すぐに営業用スマイルを貼り付け、深く頭を下げた。


「申し訳ありません。ご挨拶に伺いました、サクライと申します」


 理不尽だ。


 だが、これくらいは想定内(エラー処理の範囲内)だ。

 俺の手には、最高級の「誠意」がある。

 部屋に通してさえもらえれば、この手土産が空気を変えてくれるはずだ。


 ――この時の俺は、まだ知らなかった。


 世の中には、こちらの理屈も常識も、そして敬意さえも通用しない。

 理解不能なバグのような人間が存在することを。


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