誠意を見せろ』と高級酒をゴミ箱に捨てた婚約者の父。隣で『謝って』と泣く彼女に、俺は静かに損切り(婚約破棄)を告げた。

品川太朗

第1話 『違和感という名の予兆』


 夜景の見えるフレンチレストラン。

 テーブルの上には、少し値の張るコース料理の最後の皿と、開かれたリングケース。


 システムエンジニアとして働く俺、サクライ・ケイスケ(30)にとって、今日は人生のプロジェクトにおける最大の節目だった。


「ミナ。僕と結婚してください」


 5年付き合った恋人、ミナ(30)へのプロポーズ。


 これまでの交際期間、大きな喧嘩もなく、穏やかな関係を築いてきた。

 彼女は少し優柔不断なところがあるが、おっとりしていて家庭的な女性だ。

 俺のような理屈っぽい男には、彼女くらい柔らかい雰囲気の方が合う。


 そう判断しての決断だった。


 ミナは涙ぐみ、何度も頷いた。


「……はい。嬉しい。ありがとう、ケイスケ」


 ここまでは、完璧な進行(スケジュール)通りだ。


 だが、俺が指輪を彼女の薬指にはめた直後。

 ミナの口から漏れた言葉は、喜びの余韻とは少し違う種類のものだった。


「どうしよう……お父さん、許してくれるかな」


 俺はワイングラスを置く手を止めた。


「許す? 結婚の報告に行くんだよな? 許すも何も、僕たちはもう三十路の大人同士だぞ」

「でも……お父さん、厳しいから」


 ミナの顔から、さっきまでの幸福な紅潮が引いていた。

 代わりに浮かんでいるのは、明らかな「怯え」の色だ。


 彼女の父親、ゲンゾウさんの話は以前から聞いていた。

「昭和の頑固親父」「厳格な人」。

 まあ、娘を持つ父親なんてそんなものだろうと、これまでは軽く受け流していた。


「挨拶に行けばわかってくれるさ。僕も仕事は安定しているし、ミナを大切にする気持ちに嘘はない」

「うん、うん……そうだよね」


 ミナは自分に言い聞かせるように、祈るように両手を組んだ。

 そして、俺の目をじっと見つめて言った。


「大丈夫だよね? ケイスケがちゃんと**『誠意』**を見せれば、お父さんもわかってくれるよね?」


 誠意。


 その言葉の響きに、俺のSEとしての職業病のようなアンテナが反応した。

 バグを見つけた時のような、微かな違和感。


「誠意って、具体的には? 失礼のない服装で行くとか、きちんとした手土産を持っていくとか、そういうこと?」

「そう! それ大事! すごく大事だから!」


 ミナが食い気味に反応する。


「お父さんね、礼儀とか筋道にすごくうるさいの。昔から『半端な男は俺が叩き直してやる』って言う人で……。だから、中途半端なものを渡したりしたら、大変なことになるの」

「大変なことって?」

「……とにかく、怒らせちゃダメなの」


 彼女の視線が泳いでいる。


 俺は思考を巡らせた。

 娘の結婚相手を値踏みする父親は珍しくない。

 だが、ミナの反応は「父親に愛されている娘の心配」というより、「独裁者の機嫌を損ねるのを恐れる部下」のそれに近かった。


「わかった。最大限の準備をしよう。ご両親に納得してもらえるよう、僕もベストを尽くすよ」


 俺がそう言って安心させようとすると、ミナはようやく強張った表情を崩し、安堵の息を吐いた。


「よかった……。ありがとう、ケイスケ。お願いね、本当に『誠意』が大事だから。お父さんの機嫌さえ良ければ、私たちは幸せになれるから」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。


 ――お父さんの機嫌さえ良ければ、幸せになれる?


 それは逆を言えば、「父親の機嫌ひとつで、僕たちの幸福はいとも簡単に吹き飛ぶ」という意味ではないか。


 彼女にとっての世界のルール(仕様)は、俺との合意形成ではなく、父親の承認が全てなのか?


 レストランを出て、上機嫌で腕を組んでくるミナの横顔を見ながら、俺は胸の中に広がる黒いモヤを払拭できずにいた。


 プロポーズ成功という「成功体験」の裏で。

 致命的なシステムエラーの予兆(アラート)が、静かに鳴り響き始めていた。


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