第九章:色彩のない世界
夏祭りの当日は、皮肉なくらいの快晴だった。
夕方になれば川敷から花火が上がる。
俺はクローゼットの奥から甚平を引っ張り出し、少し早めに家を出た。
約束の時間にはまだ早いが、彼女のことだ、きっと朝から窓にへばりついて俺を待っているに違いない。
「遅いですよ」と頬を膨らませる顔が見たくて、俺は自転車のペダルに足をかけた。
ポケットの中で、スマホが震えたのはその時だった。
画面に表示された『セバスチャン』の文字を見た瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
嫌な予感。
かつて妹が死んだあの日の朝と同じ、耳鳴りがするような静寂が世界を包んだ。
「……はい」
『〇〇様、直ちに病院へ』
執事の声は、いつもの冷静沈着な響きを保っていたが、どこか空洞のような脆さを孕んでいた。
『お嬢様の容態が、急変いたしました』
世界が反転した。
~~~
どうやって病院まで辿り着いたのか、記憶が曖昧だ。
信号無視をしたかもしれない。
誰かに怒鳴られたかもしれない。
ただ、アスファルトの陽炎と、耳元で喚き続ける蝉の声だけが、俺の焦燥を煽り立てた。
(嘘だろ、昨日あんなに元気だったじゃないか)
(約束したんだ。花火を見るって。俺の部屋に来るって)
(頼む、待ってくれ。まだ何も叶えてやってないんだ)
汗だくになって特別病棟の廊下を走る。
以前、駆けつけた時は医師たちの怒号や電子音が飛び交っていた。
けれど今日は、廊下の向こう側があまりにも静かだった。
重厚な扉が開かれている。
そこには、白いシーツを被せられたベッドと、その傍らで深々と頭を下げるセバスチャンの姿があった。
「……おい」
足が震えて前に進めない。喉が張り付いて、情けない声しか出ない。
「嘘だろ? おい、オリア。……起きろよ」
セバスチャンが無言で一歩下がる。
俺はおそるおそるベッドに近づき、震える手でシーツを捲った。
そこにいたのは、眠っているように美しいオリアだった。
苦悶の表情はない。
ただ、電池が切れた人形のように、ふっつりと糸が切れてしまっただけのような顔。
けれど、そのまぶたは固く閉じられ、あの不思議な色彩を放つオパールの瞳を見ることはもうできない。
頬に触れる。
ひやりとした感触。
昨日のあの熱っぽい体温はどこへ行ったんだ。
「……花火、今日なんだぞ」
俺は彼女の冷たい手を握りしめた。
「浴衣、着せてやるって約束しただろ。……車椅子だって、特等席を予約したんだ」
返事はない。
握り返してくる力もない。
あの時、俺の指を必死に締め付けようとしたあの微弱な痛みさえ、今はもう愛おしくてたまらない。
「……っ、うあ……」
視界が滲んで、彼女の顔が歪む。
サイドテーブルには、あの日渡した花火大会のチラシと、一冊の革張りのノートが置かれていた。
日記だ。
俺は縋るようにそれを開いた。
丁寧な文字で綴られた日々の記録。
その最後のページの日付は、昨日のものだった。
『明日が待ち遠しい。心臓がうるさくて眠れない』
『あの人と一緒に花火を見上げたら、きっと私は世界で一番幸せな女になれる』
『もっと生きたい。もっと触れたい。あなたの時間を、体温を、鼓動を、全部私だけのものにしたい』
『神様、どうか明日まで待って。……彼との約束があるの』
文字は最後の方で乱れ、インクが滲んでいた。
恐怖と、執着と、愛が入り混じった叫びのような筆跡。
彼女は最期の瞬間まで、俺を求めてくれていた。生きようとあがいていた。
なのに俺は、また間に合わなかった。
「……嘘つき」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
「夏まで待つって言ったじゃないか。……俺を一人にしないって、言ったくせに」
妹の時と同じだ。
大事なものはいつだって、俺の手の隙間から零れ落ちていく。
窓の外で、パン、と乾いた音がした。
昼花火の合図だ。
街はこれから祭りで賑わうというのに、この白い部屋だけが世界から切り離されている。
俺は冷たくなった彼女の亡骸に縋り付き、声を殺して泣いた。
色彩のない世界で、俺の慟哭だけが虚しく響いていた。
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