第七章:最初で最後のデート
車椅子のタイヤが砂利を踏む、ジャリ、ジャリという音が、ひどく新鮮に鼓膜を揺らした。
病院の敷地を一歩出た瞬間、世界の色彩が一気に彩度を増した気がした。
初夏の陽射しはアスファルトを白く焼き、街路樹の緑は目に痛いほど鮮やかだ。
「眩しいですね……」
膝上のブランケットを握りしめながら、オリアが目を細める。
その表情は、眩しさへの嫌悪ではなく、世界を再びこの目で見られたことへの純粋な歓喜に満ちていた。
「無理してないか? 辛かったらすぐ戻るからな」
「いいえ。……もう少しだけ、この風を浴びていたいです」
今日は特別に許可が下りた外出日だ。
行ける範囲は病院の裏手にある大きな公園までだが、彼女にとっては大冒険に等しい。
俺はグリップを握る手に力を込め、ゆっくりと坂道を下っていった。
すれ違う人々が、ふと足を止めて彼女を見る。
無理もない。
今日のオリアは、病衣ではなく、淡いクリーム色のワンピースに身を包んでいる。
陽の光を透かす水色の髪と、宝石のような瞳。
それは迷い込んだ妖精のように浮世離れしていて、俺自身も直視するのが少し気恥ずかしいほどだった。
「あなたが選んでくださった服、とても素敵です」
「店員に勧められただけだよ。俺にはセンスなんてないし」
「ふふ。あなたが選んでくれたという事実だけで、私にはどんなドレスより価値がありますわ」
~~~
公園の噴水広場に到着すると、俺たちはベンチの横に車椅子を停めた。
噴水が上げる水しぶきが、風に乗って微かな霧となり、火照った肌を冷やしてくれる。
「アイス、買ってくるよ。バニラでいいか?」
「はい。……半分こ、しましょうね」
売店でソフトクリームを買い、溶けないように急いで戻る。
たった数分の不在だったのに、彼女の姿を見つけた瞬間、ひどく安堵した自分に驚いた。
俺たちは一本のソフトクリームを交互に口にした。
間接キスだとか、そんな甘酸っぱい意識よりも、彼女が「美味しい」と笑ってくれることへの充足感が勝っていた。
「ねえ、〇〇様」
食べ終えた後、オリアが不意に真剣な声色で俺を呼んだ。
「ん?」
「もし……もしも私が、このまま季節を越せなくて。
夏の花火も見られずに、お星様になってしまったら」
「おい、縁起でもないこと言うなよ」
俺が遮ろうとしても、彼女は強い視線で俺を射抜いて言葉を続けた。
「仮定の話です。……私が死んだら、あなたは別の誰かを見つけて、その人と恋をして……
私のことなんて忘れてしまうのでしょうか?」
風が止んだ。
噴水の音だけが、やけに大きく響く。
彼女の瞳が揺れている。
それは死への恐怖というより、俺という存在を失うことへの根源的な恐れに見えた。
俺は彼女の前にしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。
「忘れるわけ、ないだろ」
「……本当ですか?」
「ああ。俺の中で、お前以上のやつなんて現れない。
もしお前がいなくなっても、俺はずっとお前だけを思ってるよ」
それは、彼女を安心させるための優しい嘘ではなかった。
この数ヶ月、俺の全ては彼女を中心に回っていた。
彼女がいない未来なんて、今の俺には想像すらできない空白だ。
「……そうですか」
オリアはゆっくりと息を吐き、蕩けるような笑みを浮かべた。
「よかった。……それなら私、安心して逝けますわ」
「だから、逝くなっていってるだろ」
「ふふ、冗談です。……でも、言質は取りましたからね?」
彼女は俺の首に細い腕を回し、耳元で囁いた。
「あなたが私だけを見てくれるなら、私はどんな手を使ってでも、あなたのそばに居続けます。
……たとえ、肉体が滅びようとも」
その言葉の響きが、妙に粘着質で重たく感じられたのは気のせいだろうか。
抱きしめられた体の冷たさと、不釣り合いなほど熱い吐息。
俺はこの華奢な少女の全てを受け止めると決めたんだ。
その執着さえも、彼女が生きた証になるなら構わない。
「帰ろうか。少し風が出てきた」
「はい。……今日は、今まで生きてきた中で一番幸せな日でした」
帰り道、車椅子を押す俺の手の甲に、彼女の手がずっと重ねられていた。
その拘束にも似た感触を愛しいと感じながら、俺は来るはずの夏を、二人で見上げる花火を、疑うことなく信じていた。
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