第六章:奇跡の処方箋

医学の常識なんて、案外脆いものらしい。


主治医の先生が首を傾げながら俺に見せたカルテは、素人の俺が見ても明らかに数値が改善していた。



「奇跡としか言いようがない」



白衣のポケットに手を突っ込みながら、先生は困ったように、けれど少し嬉しそうに笑った。


「君が来るようになってから、オリアさんの容態が驚くほど安定しているんだ。

 心拍、血圧、酸素飽和度……全てにおいて、生きるための意欲が数値として表れている」


生きる意欲。

その言葉が、俺の胸に温かい火を灯した。



俺は、彼女の役に立っている。

ただの気休めや同情なんかじゃない。

俺という存在が、物理的に彼女の命を繋ぎ止める楔になっているんだ。


妹の時は、何もできなかった。祈ることしか、手を握ることしかできなかった。


けれど今は違う。

俺が笑えば彼女も笑う。

俺が「生きろ」と願えば、彼女の体はその通りに応える。


まるで、俺が彼女の心臓を動かしているような、そんな全能感にも似た高揚感が湧き上がってくるのを抑えきれなかった。



~~~



病室に戻ると、オリアはベッドの上でリンゴを齧っていた。


以前なら点滴だけで済ませていた食事が、最近では固形物を口にできるまでになっていた。


「あ、おかえりなさいませ」


ウサギの形に切られたリンゴをフォークに刺したまま、彼女が微笑む。


その頬には、以前のような透き通るような蒼白さはなく、薄っすらと紅が差していた。


「先生から聞いたよ。すごく調子がいいんだってな」


「ええ。……あなたが毎日、魔法をかけてくださるおかげです」


「魔法?」


「愛、という名前の魔法ですわ」


オリアは悪戯っぽくウィンクしてみせた。

その仕草があまりに可憐で、俺は照れ隠しに視線を逸らす。


「大袈裟だな。俺はただ、隣に座ってるだけだろ」


「それが重要なのです。あなたが隣にいると、体の奥底から力が湧いてくるの。

 ……絶対に、死んでなんてやらないって」


彼女の言葉には、どこか鬼気迫るような力が籠っていた。


「死んでたまるもんですか。夏の花火も、その先の未来も……

 全部、あなたと一緒じゃなきゃ意味がありませんもの」


フォークに刺さったリンゴを、彼女は「ガリッ」と音を立てて噛み砕いた。



俺は嬉しくなって、彼女の頭を撫でた。


「その意気だ。もっと食べて、もっと元気になれ」


「はい。……体力をつけないと、いけませんからね」


「そうだな、花火大会は結構歩くからな」


「ふふ、ええ。……『歩く』ためにも、それ以外の『運動』のためにも」


後半の言葉は声が小さくてよく聞こえなかったけれど、彼女が前向きなのは間違いない。



~~~



俺は知らなかった。


彼女が言う「体力作り」の目的が、単なる外出のためだけではないことを。


彼女の中で「死なない」という決意は、「目的を達成するまでは地獄の底からでも這い上がる」という執念と同義であることを。


医学では説明がつかない奇跡。それは愛の力なんて綺麗なものじゃない。


ただひたすらに、一人の男を手に入れ、その全てを食らい尽くしたいという、純粋で強大な欲望が肉体を凌駕し始めた証だったのだ。


けれど今の俺には、頬を染めてリンゴを食べる彼女が、ただ健気な少女にしか見えなかった。



「俺がずっと、支えてやるからな」

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