第五章:銀の天秤、あるいは冷徹な献身(執事目線)

(執事目線)


少年が帰った後の病室は、嵐が過ぎ去った後の海のように静まり返っていた。


“私”は音もなく室内に入り、サイドテーブルに置き去りにされた花火大会のチラシを手に取った。


極彩色に彩られたその紙切れは、この無機質な空間にはあまりに不釣り合いで、毒々しくさえ見えた。



「……セバスチャン」


ベッドの中から、お嬢様が鈴の音のような声で私を呼ぶ。


先ほどまで少年の前で見せていた、あどけない少女の表情はもうそこにはない。


あるのは、獲物を絡め取った蜘蛛のような、昏い充足感に満ちた瞳だけだった。


「準備をなさい。……夏までに、私が外へ出られるように」


「かしこまりました。主治医には既に圧力を……いえ、相談をしております。

 あらゆる手段を用いて、お嬢様の『願い』を叶える所存です」


私は恭しく一礼した。



“オリアお嬢様”。



この儚くも美しい、我が主人の最高傑作。


生まれつき欠陥を抱えたその器に、これほどまでに強烈な自我と執着が宿るとは、誰が予想しただろうか。


あの日、少年が身を挺してお嬢様を救った瞬間から、運命の歯車は狂い、そして正しい位置へと嵌まり込んだ。



あの少年──名もなき、どこにでもいる平凡な高校生。


彼には特筆すべき才能も、莫大な資産もない。


だが、彼には一つだけ、お嬢様が必要とする稀有な資質があった。


それは「罪悪感」という名の首輪を受け入れる、愚直なまでの献身性だ。


妹を亡くした過去。守れなかった後悔。


その古傷がお嬢様という存在と共鳴し、彼は自ら進んでこの茨の檻へと足を踏み入れた。



「彼、約束してくれましたわ。……指切りをしたの」


お嬢様は自分の小指を愛おしそうに見つめ、うっとりと頬を染めている。


「逃がしませんわ。死んでも、離してなんてあげない」


その言葉に嘘はないだろう。


お嬢様の愛は、重力のように相手を縛り付け、底なしの沼へと引きずり込む。

普通の人間なら、その重さに耐えきれず逃げ出すか、あるいは精神を病んでしまう。



だが、あの少年は違う。


彼はその重さを「愛」だと、あるいは「生きるための悲痛な叫び」だと、都合よく誤解して受け止めるだけの度量──いや、鈍感さを持っている。



(素晴らしい素材だ)


私は内心で舌を巻いた。


旦那様や奥様も、この件に関しては静観、いや、推奨しておられる。


「オリアが望むなら、手に入れさせなさい。手段は問わない」と。


この屋敷の流儀は常にシンプルだ。



欲しいものは手に入れる。

たとえそれが、人の心や人生そのものであっても。



~~~



私は病室を出て、廊下の窓から外を見下ろした。


夕闇の中、自転車を漕いで帰路につく少年の背中が見える。


彼は今、自分が救世主になったような気分でいるのだろう。

少女の命繋ぎ止める、唯一の希望の光だと。



だが、現実は逆だ。


繋ぎ止められているのは、彼の方なのだから。


「逃がしませんよ、少年」


私はガラス窓に映る自分の顔に向かって、薄く笑いかけた。


彼がこの先、大学に進学しようとも、就職しようとも、お嬢様の傍らという指定席からは一歩も動けないように。



外堀は既に埋め始めている。


彼の家族、交友関係、進路。

すべての情報はこの手の中にある。


もし彼が心変わりしそうになれば、罪悪感を刺激し、同情を誘い、時には物理的な干渉を行ってでも引き戻す。


それが、私に課せられた責務であり、この歪な「純愛」を完成させるための最後のピースなのだから。



お嬢様の病状は、医学的には絶望的だ。


だが、人間の意志というものは時に数値を凌駕する。

彼への執着が、お嬢様の心臓を無理やり動かしているのだとしたら。

私たちはその燃料を、絶やすことなく供給し続けなければならない。


それがたとえ、ひとりの少年の未来を薪として焼べる行為だとしても。



銀の懐中時計を取り出し、時刻を確認する。


全ては計画通り。

夏の花火が夜空に咲く頃、この物語は一つの結末を迎えるだろう。


それが悲劇になるか、喜劇になるか。

どちらによせ、私の忠誠は揺るがない。



「おやすみなさいませ、お嬢様。……良い夢を」


閉ざされた扉の向こうで、少女が微かな寝息を立て始めたのを確認し、私は音もなくその場を去った。




私の靴音が、冷たい廊下に静かに、そして重く響いた。


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