第三章:点滴の鎖
放課後のチャイムが鳴ると、俺は誰よりも早く教室を飛び出すようになった。
バイトも辞めた。
友達との付き合いも減った。
今の俺の優先順位は、いつだってあの白い病室にある。
「また病院か?」
友人の呆れた声を背中で受け流し、自転車のペダルを漕ぐ。
片道二十分の道のり。
息を切らして病室のドアを開ける瞬間が、今では俺の一日の中で一番生きた心地がする時間になっていた。
オリアはいつも待っている。
窓の外を眺めていた彼女が、俺の足音に気づいてパッと顔を輝かせる。
その瞬間が見たくて、俺は毎日通っているのかもしれない。
~~~
ある雨の日だった。
進路指導が長引いて、いつもより三十分ほど遅れてしまった。
スマホには着信こそなかったが、胸騒ぎがしてペダルを漕ぐ足に力が入る。
病院のロビーを駆け抜け、エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がった。
特別病棟の廊下に入った瞬間、不穏な電子音が聞こえてきた。
(……嘘だろ)
オリアの部屋の前で、看護師たちが慌ただしく動いている。
「心拍数が上がりすぎています!」
「過呼吸も併発してる、鎮静剤を!」
俺は濡れた髪も拭わずに部屋へ飛び込んだ。
「オリア!」
ベッドの上で、彼女は苦しそうに胸を押さえていた。
顔色は真っ白で、唇は紫色に震えている。
モニターの数値が異常な速さで点滅していた。
「……っ、はぁ、う……」
「オリア、俺だ! 来たぞ!」
医師たちが俺を制止しようとするのを振り切って、俺は彼女の元へ駆け寄った。
その瞬間だ。
オリアの視線が俺を捉えた途端、痙攣していたような呼吸が、嘘みたいに止まった。
「……ぁ」
彼女の細い腕が、溺れる人が流木にすがるような必死さで俺の手首を掴んだ。
「……遅い、です」
掠れた声。
けれど、そこには明確な責める響きがあった。
「ごめん。先生に捕まって……連絡できなくて」
俺が謝ると、オリアは俺の手を自分の胸に押し当てた。
早鐘のように打っていた心臓の鼓動が、俺の掌を通じて少しずつ落ち着いていくのが分かった。
医師たちが呆気にとられている。
「……信じられない。薬も効かなかったのに」
主治医が独り言のように呟いた。
数値はみるみる正常値に戻っていく。
まるで、俺という存在そのものが特効薬であるかのように。
人払いをしてもらい、二人きりになると、オリアはぽつりと零した。
「……死ぬかと、思いました」
「大袈裟だな。ちょっと遅れただけだろ」
俺が苦笑して頭を撫でると、オリアは濡れた瞳で俺を睨み上げた。
その目は、いつもの儚げなオパール色ではなく、もっと暗く、深い色をしていた気がした。
「大袈裟ではありません。……あなたが来ないと、私、息の仕方も忘れてしまいそうになるんです」
「……」
「時計の針が進むたびに、心臓が冷たくなって……このまま捨てられたんじゃないかって、怖くて」
彼女は俺の手を、今度は自分の頬に寄せた。
「お願いです。もう私を待たせないで。……私には、あなたしかいないんですから」
その言葉の重さを、俺は「孤独な少女の不安」だと解釈した。
妹もそうだった。
一人の時間が長いと、誰かに忘れ去られる恐怖に襲われるのだ。
「悪かったよ。次は絶対、時間通りに来る」
「約束ですよ?」
「ああ、約束だ」
オリアは満足そうに目を細め、俺の手の匂いを嗅ぐように顔を埋めた。
その仕草が少しだけ異質に見えたけれど、俺はそれを病弱さゆえの甘えだと受け流した。
俺が必要とされている。
俺がいなければ、この子は息もできない。
その事実は、俺の歪んだ自尊心を満たし、同時に逃れられない責任感となって俺を縛り付けた。
「ずっと、そばにいてくださいね」
「ああ」
窓の外では雨が降り続いている。
俺たちは閉ざされた部屋の中で、共犯者のように視線を絡ませていた。
俺はまだ知らない。
この「点滴の鎖」が、俺の自由を少しずつ、しかし確実に奪い始めていることを。
彼女にとっての「待つ時間」が、不安ではなく、どす黒い執着を育てる苗床になっていることを。
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