第一章:春の嵐、衝突音

春の風は、いつだって俺の神経を逆撫でする。

生暖かい空気が、あの日を思い出させるからだ。


病院の裏手にある桜並木。

そこで俺は、その「非現実」を見た。


付き添いの黒服が少し目を離した隙だった。


道路脇に、一枚の薄い硝子細工みたいな少女が立っていた。



(……なんだ、あれ)


人間じゃないみたいだ。

色素の抜けたような白に近い水色の髪が、風に吹かれて頼りなく揺れている。


その時だ。



キキキッ、という鼓膜をつんざく摩擦音。


交差点を曲がり損ねた軽トラックが、ガードレールを突き破る勢いで歩道へ突っ込んでくる。



「お嬢様!」



黒服の叫び声は遅すぎた。

少女は動かない。いや、恐怖で動けないのか。


俺の足は、思考よりも先に地面を蹴っていた。


あの日、動かなかった指先。

握り返せなかった手。



(今度は、間に合え!)


視界がスローモーションになる。


トラックのバンパーが迫る。

少女の華奢な体が、死角に入る。


俺はタックルするように彼女の体に飛び込み、そのままアスファルトの上を転がった。


ドォン、と鈍い衝撃音が背後で響く。


舞い上がる土煙と、焦げたタイヤの臭い。


「……っ、ぐ」


肘と膝が熱い。

擦りむいたか。


だが、腕の中にある感触は無事だった。


「……おい、大丈夫か」


恐る恐る腕を解く。



そこにいたのは、至近距離で見るとますます人間離れした美貌の少女だった。


長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。


そこにあるのは、オパールみたいな不思議な色の瞳。



「……あ」


彼女の瞳が、俺の顔を映して揺らめいた。


怯えているのか? いや、違う。

その目は、獲物を見つけた肉食獣のように、俺の奥底を覗き込んでいた気がした

──なんて、そんなわけないか。


極度の恐怖で混乱しているんだろう。


「怪我は?」


「……あり、ません」


鈴を転がしたような声。


「あなたが……助けて、くださったのですか?」


「まあ、とっさに体が動いただけだよ」


俺は彼女を立たせようとして、その「軽さ」に息を呑んだ。



羽毛みたいだ。

中身が入っていないんじゃないかと疑うほど、軽い。


(……妹と、同じだ)



骨と皮だけのような感触が、嫌な記憶を呼び起こす。


「お嬢様! 申し訳ございません!」


黒服が血相を変えて駆け寄ってくる。


「君、大丈夫か? 救急車は……いや、ここは病院の前か」


俺が苦笑すると、少女は俺の袖をぎゅっと掴んだ。

指先が白くなるほど強く。


「……離さないで」


「え?」


「あ、いえ……足が、震えてしまって」


少女は恥ずかしそうに頬を染め、上目遣いで俺を見る。


「私、“オリア”と申します。……命の恩人様、お名前を教えていただけますか?」


「俺は……名乗るほどのもんじゃないけど」


「お願いします」


その必死な眼差しに負けて、俺は名前を告げた。



~~~



「……素敵な、お名前」


オリアは熱に浮かされたように呟くと、俺の手の甲にそっと触れた。


冷たい。氷みたいな指先だ。


「お礼をさせてください。……また、会えますか?」


断ろうと思った。

でも、その懇願するような目と、今にも消えてしまいそうな儚い存在感が、俺の足を止めた。


このまま手を離したら、二度と掴めない気がして。



「……ああ。また、顔を見に行くよ」


俺がそう言うと、オリアは花が咲いたように笑った。


その笑顔の裏で、彼女が小さな声で何かを呟いたのを、俺は聞き逃していた。



『……見つけた』



騒がしくなる周囲の中で、俺たちの運命の歯車は、ガチリと音を立てて噛み合った。



俺はまだ知らない。


この軽くて冷たい硝子の少女が、どれほどの熱をその身に秘めているのかを。



ただ、放っておけない。


それだけの理由で、俺は彼女の檻に足を踏み入れたんだ。

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