第2話 朝の儀式

朝は、目覚まし時計の音ではなく、鋭い霧吹きの音で始まる。


シュッ、シュッ。


霧状になった冷たい液体が顔に降り注ぎ、れんはまぶたを震わせた。 鼻腔を突くのは、目が覚めるような、刺すような塩素の匂いだ。


「おはよう、蓮。今日も外の汚れを持ち込まないように、しっかり洗わなきゃね」


視界が開けると、すぐ目の前に母・恵子けいこの顔があった。 母の肌は、あまりの「清掃」のしすぎで毛穴が見えないほど滑らかで、不自然に白い。 彼女は蓮が起き上がるのを待たず、寝具にこれでもかと消毒液を振り撒いていく。


「……おはよう、母さん」


蓮は重い体を引きずりながら、洗面所へ向かう。 鏡に映った自分の顔は、十七歳にしては血色が悪く、首筋から胸元にかけて、皮膚が赤くただれていた。 連日の「洗浄」に肌が悲鳴を上げているのだ。 しかし、母にとってこれは「清潔である証」であり、拒むことは許されない。


洗面台には、すでに泡立てられた特殊な薬用石鹸が用意されていた。 蓮は慣れた手つきで、指先を、爪の間を、肘までを、皮膚が白くふやけるまでこすり合わせる。


「もっとよ、蓮。爪の間。そこにバイ菌が隠れているの。花音かのんが見たら怖がるわよ」


背後に立つ母の声は、どこまでも優しく、慈愛に満ちている。 不意に、蓮の手の甲を母の細い指がなぞった。 爛れた皮膚に、母の爪が食い込む。 ピリッとした激痛が走り、薄い組織液が滲み出したが、蓮は眉一つ動かさなかった。


「……うん、そうだね。花音が帰ってきたら、笑われないようにしないと」


蓮は、数日前から「遠くへ行っている」という妹、花音のことを思う。 彼女がどこへ行ったのか、母さんは教えてくれない。 けれど、昨夜からずっと、家の床下から「ピチャッ」という、水が弾けるような、小さな湿った音が聞こえてくるのが気になっていた。


朝食のテーブルには、真っ白な平皿の上に、一切の焦げ目がない白い蒸しパンが置かれている。 母は満足げに微笑みながら、蓮の爛れた首筋に、そっと深く、吸い付くようなキスを落とした。


「行ってらっしゃい、蓮。学校でも、誰にも触れちゃダメよ。汚れは……家系を滅ぼす毒なんだから」


玄関を出ると、外の空気はひどく汚濁しているように感じられた。 蓮はポケットの中で、じゅくじゅくと鳴る自分の手のひらをそっと握りしめた。

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ゆりかごの解体、あるいは聖母の膿 ひじきの部屋 @hijikinoheya

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