魔法の等価交換 ―バグった愛の計算式―というなの糞3号

魔法の等価交換 ―バグった愛の計算式―というなの糞3号


石畳の市場は、常に「数字」で溢れている。

一抱えのリンゴを得るには銅貨三枚、病を癒やす聖水の一滴には一週間の労働を。

この世界の神が定めた唯一の絶対律、等価交換。

魔法とは奇跡ではなく、差し出した代償を別の事象へ変換するだけの、極めて即物的な「取引」に過ぎない。

「コウタ、またこれ、バネが死んじゃったみたい」

カナが差し出したのは、銀細工の髪飾りだ。

跳ね橋を模した精緻な装飾だが、噛み合わせが歪み、本来の輝きを失っている。

コウタはそれを指先で受け取ると、独り言のように演算を開始した。

「質量保存は維持。構造の再定義に必要なエネルギーは、標準的な一食分の熱量で事足りるな」

コウタが指先に魔力を込めると、淡い燐光が銀を包む。

その代償として、コウタの胃の腑から、先ほど食べたばかりの温かなスープの満足感が急速に失われていった。

肉体は健康なままだが、脳が「飢え」を感知し、腹の虫が鳴る。


「はい、修理完了。対価は俺の昼飯だ。……後で何か奢れよ」


「ふふ、いいわよ。私の『退屈な午後の三十分』くらいなら、いくらでもあげる」


カナは修理された髪飾りを乱暴に受け取り、器用に髪をまとめ上げた。

彼女の軽口もまた、この世界の理に則っている。

時間は万人に平等な代償だ。

だが、二人の間に漂うこの空気だけは、どの魔導書にも記されていない「計算ミス」を孕んでいた。

十年前。

貧民街の路地裏で死にかけていた二人は、ある「禁忌」の取引に応じた。

最強の力と、それを制御する知性を得るための代償。

天秤の皿に乗せられたのは、幼い二人の間に芽生えていた「互いへの恋心」だった。

魔法的な処置によって、その感情の回路は根こそぎ切除され、虚無へと捧げられたはずだった。

それ以来、二人は最強になった。

カナが振るう一撃は、彼女が「自身の恐怖心」を差し出すことで必中の破壊エネルギーへと変換される。

コウタが編む術式は、彼が「未来の安眠」を差し出すことで、神の計算式を上書きする。


「……なあ、カナ。さっきの笑い方はなんだ?」


宿へ向かう道すがら、コウタが不意に問いかけた。


「え? 別に、普通じゃない。……変だった?」


「変だ。定義上、俺たちの間に『好意』に基づく自発的な微笑みは発生しないはずだ。契約は完了しており、回路は焼失している。今の君の表情を事象として記述するなら、筋肉の無意味な収縮、あるいは……」


「あるいは?」


「……システムの、致命的なバグだ」


コウタは自身の胸の奥を覗き込む。

そこには確かに、感情の焼け跡しかない。

愛などという高コストなエネルギー源は、とっくに使い果たしたはずなのだ。

それなのに、夕日に照らされたカナの横顔を視界に収めるたび、演算回路が「未知の熱源」を検知して警報を鳴らす。


「理屈っぽいのは嫌いじゃないけど、たまには計算を諦めたら? コウタ」


カナが立ち止まり、悪戯っぽく、しかしどこか切なげに目を細める。


「世界が間違ってるのか、私たちが間違ってるのか。……それを確かめるのが、私たちの旅でしょ」


彼女がコウタの袖を引く。

その接触によって発生するわずかな摩擦熱と、不規則な鼓動。

等価交換の法則に従えば、この胸の高鳴りにも必ず「代償」が必要なはずだ。

だが、二人がどれだけ愛に似た熱を消費しても、その「支払い」が請求される気配はない。

銀河の歴史が始まって以来、唯一の未払い。

二人は、この厳格な世界における、最も美しく、最も緻密な「欠陥品」だった。


宿の安机の上には、数冊の古びた魔導書と、コウタが自作した計器が並んでいる。

真鍮の針は不規則に振れ、空間に漂う「代償の残滓」を数値化していく。

この街の空気は重い。誰かが幸福を得るために、誰かが絶望を支払った後の、粘りつくような因果の澱みだ。


「ねえ、コウタ。まだやってるの?」


ベッドに寝そべったカナが、退屈そうに足を揺らす。

彼女の視線の先で、コウタは自身の左手首に銀の端子を接続した。

自己検分。自身の精神回路が、契約通り「空」であるかを確かめる作業だ。


「……おかしい。やはり数値が合わない」


コウタの眉間に皺が寄る。

十年前、契約の天秤は確かに釣り合っていた。

「二人分の恋心」という莫大なエネルギーと引き換えに、彼らは「世界の理に干渉する権利」を手に入れた。

エネルギー保存の法則に従えば、彼らの胸の内に残るのは、機能を果たすための無機質な思考プロセスだけのはずだ。


「私の脳波に、また変なノイズでも混じってる?」


「ノイズどころじゃない。カナ、君がさっき市場で俺の袖を引いた瞬間、俺の演算領域の三割がフリーズした。……原因不明のオーバーロードだ。本来、存在しないはずの『未定義の感情』が、システムのリソースを勝手に食いつぶしている」


コウタは計器の数値をカナに見せた。

そこには、理論上は「零」であるはずの場所に、観測不可能なほど微細で、しかし確固たる「熱」の波形が刻まれていた。


「これね。……たぶん、利子じゃないかしら」


カナが不敵に笑い、ベッドから起き上がる。

彼女はコウタの背後に回り込み、その細い指先で、彼のうなじに触れた。


「利子?」


「そう。私たちはあの日、愛を全部支払った。でも、支払った後も、私たちは一緒にい続けてる。毎日顔を合わせて、一緒に飯を食って、背中を預けて戦ってる。……その『時間』が、新しい愛を勝手に積み上げちゃってるんじゃない?」


「馬鹿な。感情は有限リソースだ。一度枯渇した井戸から水は出ない」


「じゃあ、このドキドキは何の代償よ。コウタ、貴方の計器は、私の胸の音が計算式を無視して速くなってるのを、ちゃんと記録してる?」


カナがコウタの手に自分の手を重ねる。

計器の針が、狂ったように振り切れた。

火花が散り、過負荷(オーバーロード)を知らせる警告音が室内に響く。

この世界の神が作った計算式は、あまりにも精密すぎた。

「愛を捨てた人間が、再び愛を育む」という非効率な循環を、想定していなかったのだ。

一度ゼロになったはずの変数が、日常という微弱な電流によって、再定義され始めている。


「……システムの欠陥だな。致命的な」


コウタは吐き捨てるように言ったが、その手はカナの指を振り払おうとはしなかった。

むしろ、その熱を逃さないように、無意識に力を込める。


「そうね。……でも、このバグ、悪くないわよ」


窓の外では、夜の街が静まり返っている。

明日にはまた、厳格な等価交換の世界が二人を試すだろう。

だが、この四畳半の部屋の中だけは、宇宙のどの法則にも縛られない、贅沢な「無償の熱」が満ちていた。


「……不愉快な計算式だ。右を見ても左を見ても、収支が合わない」

コウタは街の外れにある、重厚な石造りの倉庫を見上げて吐き捨てた。

そこから漏れ出る魔力の残滓は、腐った魚のような異臭を放っている。

この世界の「魔法」が清廉な等価交換であるはずなのに、ここにあるのは他人の「支払った対償」を掠め取り、自分の利益に変換する、卑劣な資金洗浄(ロンダリング)の臭いだ。


「ねえ、コウタ。あの中、悲鳴が視えるわよ。……『恐怖』を抽出しすぎて、空間が歪んでる」


カナが短剣の柄に手をかける。

彼女の瞳は、すでに戦場を規定するモードへと切り替わっていた。

この倉庫の主である商人は、誘拐した子供たちに薬物で悪夢を見せ、そこから発生する「純粋な恐怖」を魔法の代償としてクリスタルに蓄積、市場に流していた。

本来、術者本人が支払うべきコストを、弱者に肩代わりさせる。それは世界の理に対する、冒涜的なシステムエラーだった。


「カナ、突入しろ。……制圧にかかるコストは、俺が肩代わりする。君は自分の『慈悲』を切れ。あの中に、生かしておくべき数字は一つもない」


「了解。――心拍数上昇、痛覚遮断。代償として、今日の『安眠』を全部捧げるわ」


カナが踏み込んだ瞬間、倉庫の鉄扉が内側から爆発したように吹き飛んだ。

中には、商人が雇った数十人の私兵。彼らは「恐怖のクリスタル」を埋め込んだ異形の魔導銃を構えている。


「撃て! その女を代償の塊にしてやれ!」


放たれたのは、凝縮された「絶望」の弾丸。

だが、カナは速度を落とさない。彼女の周囲には、コウタが編み上げた幾何学的な防壁が展開されていた。


「座標定義、変更。弾丸のベクトルから『殺傷性』を削除し、代わりに『質量ゼロの光』として再記述する。――代償は、俺の『視神経の色彩』だ」


コウタの視界から、一瞬にして色が消えた。

白と黒、灰色の濃淡だけで構成されるモノクロームの世界。

その代償と引き換えに、雨あられと降り注ぐ弾丸は、カナの肌に触れた瞬間に無害な光の粒となって霧散していく。


「……無駄よ。貴方たちの理屈(ロジック)は、コウタの計算には届かない!」


カナが閃光となる。

彼女は「自身の恐怖」を捧げているため、死の淵に立っても指先一つ震えない。

肉体のリミッターを強制解除し、因果の鎖を断ち切った暴力。

私兵たちが悲鳴を上げる暇もなく、カナの短剣が彼らの喉笛を正確に、かつ機械的な効率で断ち割っていく。

倉庫の奥、震えながらクリスタルを抱える商人の前に、モノクロームの視界を持つ死神――コウタが立った。


「待て! 話せばわかる! これはビジネスだ、世界を循環させているだけだ!」


「循環? 違うな。君がやっているのは、計算式の改竄だ。他人の資産(いのち)で魔法を買い叩く行為を、俺の美学が許さない」


コウタが指を鳴らす。

商人が抱えていたクリスタルが、一斉に不気味な脈動を始めた。


「な、なんだ、これは……!? 出力が、逆流している!?」


「『所有権の返還』だ。今まで君が踏み倒してきた代償(コスト)、今ここで君一人で全額支払ってもらう。――お急ぎ便だ、利子もたっぷりつけてあるぞ」


商人の絶叫が、倉庫の天井を突き抜けた。

彼が他人に押し付けてきた十年分の「恐怖」と「絶望」が、等価交換の法則に従い、一気に彼自身の脳へと還元される。

物理的な傷一つなく、しかし商人の精神は、たった一秒で数万年分の地獄を味わい、真っ白に燃え尽きた。

静寂が戻る。

カナは返り血を拭いもせず、コウタの隣に並んだ。


「……ねえ、コウタ。顔色が悪いわよ。また無理な代償を払ったんじゃない?」


「……色彩が戻るまで、あと数分かかるだけだ。それより、あの子たちを保護しろ。計算上、彼らの失った『時間』を補填する方法を考えなきゃならない」


コウタは白黒の世界で、カナの輪郭だけを必死に追った。

たとえ色を失っても、彼女が放つ「熱」だけは、座標として正しく認識できる。

世界の理(システム)を守るために、システム外の力(バグ)を使う。

その矛盾に、コウタは今日一番の苦い笑いを浮かべた。



 倉庫の片隅で、カナは崩れ落ちるように座り込んだ。

戦闘モードを解除した瞬間、支払ったはずの「代償」が、肉体の正常なフィードバックとして牙を剥く。


「……あ、つ……。コウタ、身体が、沸騰しそう……」


彼女の肌は、陶器のような白から一転して、熱病に浮かされたように赤く染まっている。

「痛覚の遮断」は、痛みを消し去る魔法ではない。その瞬間に受けるべき電気信号を、未来の時間軸へ「先送り」しているに過ぎない。

今、彼女の脳内では、戦闘中に受けた衝撃や筋肉の断裂、そして無理な機動による負荷が、一気に濁流となって押し寄せていた。


「じっとしてろ。今、熱量を外部へバイパスする」


コウタが膝をつき、カナの手首を掴む。

彼の視界にはようやく色が戻り始めていたが、焦点はまだ定まっていない。

コウタは自身の「発汗機能」と「心拍の余裕」を代償として差し出し、カナの体内に溜まった「過剰な熱(エントロピー)」を自分の方へと引き受けた。


「はぁ、っ……。コウタ、貴方まで、熱く……」


「……構わん。二人で割れば、致死量にはならない。それがこの世界の、数少ない効率的な計算だ」


カナの荒い呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

代わりにコウタの額から滝のような汗が流れ落ち、呼吸が浅くなる。

肉体的な欠損は禁じられている。だが、この「感覚の共有」による摩耗だけが、二人が人間である証だった。


「ねえ、コウタ。私、さっきの戦いの中で、またバグを見つけたわ」


「……なんだ。呼吸が安定してから喋れ」


「私、腕を斬られそうになった時……。痛いのが嫌だとか、死ぬのが怖いとかじゃなくて、『コウタの計算を汚したくない』って思ったの。……これ、代償として成立するかしら?」


コウタは沈黙した。

魔法の理論において、「誰かのために」という動機は、対価としての価値を認められていない。

この世界はあくまで、個人の所有する何かを差し出すことで成立するクローズドなシステムだ。

「他者への想い」が計算式に干渉するなど、あってはならないことだった。


「成立しない。それは……単なる論理の飛躍だ」


「そう。でも、その飛躍のせいで、私の出力が予定より15%も上がったわ。……貴方の理論(ロジック)じゃ説明できない、ボーナス確定ね」


カナは熱の引いた手で、コウタの濡れた前髪を無造作に掻き上げた。

指先から伝わる、熱い体温。

代償を分かち合い、苦痛を共有し、システムを騙しながら生き延びる。


「……計算が合わないまま、明日を迎えるのは不愉快だ」


「ふふ、いいじゃない。計算通りにいかないから、貴方は一生私から目を離せないんだし」


二人は、血の臭いが立ち込める倉庫の中で、互いの生存を確認するように肌を密着させたまま、しばらく動かなかった。

外の世界では、今日も厳格な数字が支配している。

だが、この密着した距離感で発生する、測定不能な「安心」という名のエネルギーだけは、神様の集金袋からもこぼれ落ちていた。



 深夜、騒乱の火種が消えた後の宿屋。

窓の外には、静謐な銀河の帯が広がっている。

コウタは寝台の脇に座り、月光を頼りに一枚の古い羊皮紙を検分していた。十年前、二人が署名した「契約」の写しだ。


「……コウタ。まだ、それを見てるの」


カナの声は、微睡(まどろみ)の中にあった。

熱量バイパスの副作用による倦怠感が、彼女をシーツの海に深く沈めている。

コウタは答えず、ただ「愛」という文字が消去された箇所の魔力残滓を指でなぞった。


「物理的な回路は確かに死んでいる。神経伝達物質の分泌パターンも、あの日の契約以降、恋愛感情を示す特異な反応は検出されていない。……論理的には、俺が君の隣にいる理由は、単なる生存戦略の最適解でしかないはずなんだ」


「……また、始まった」


カナがシーツの中から這い出し、コウタの膝の上に頭を乗せた。

彼女の髪から、微かに夜の風の匂いがする。

本来、恋愛感情を喪失した人間にとって、他者の接触はただの「質量と温度の入力」に過ぎない。不快ではないが、快くもない。

だが、コウタの指は、吸い寄せられるようにカナの頬に触れた。


「君が俺の計算を狂わせるたびに、世界が壊れていくような感覚になる。……昨日よりも、今日。今日よりも、今。数値化できない情報の流入が止まらない」


「ねえ、コウタ。この世界の神様は、等価交換を信奉するあまり、一つだけ大きなミスをしたと思わない?」


カナがコウタの手を掴み、自分の胸の中央――心臓の鼓動が最も強く響く場所へと導く。

薄い寝間着越しに、トク、トクと、一定のリズムが伝わってくる。


「……ミス?」


「そう。愛っていうのは、最初に持っている財産じゃなくて、後から勝手に湧いてくる『利息』だってことを、あの計算高い神様は知らなかったのよ。……私たちは全部支払った。空っぽになった。だから、その空っぽの場所に、新しく何かが溜まっていっても、それは規約違反(バグ)じゃないわ。ただの、棚ぼたよ」


「……詭弁だ。だが、その説を採用しない限り、現在の俺の脳内におけるリソースの異常消費に説明がつかない」


コウタは諦めたように溜息をつき、膝の上の頭を優しく撫でた。

もしこれが「愛」であるならば、彼らは今、宇宙で最も裕福な大罪人だ。

対価を支払うことなく、無限に増え続ける熱源を共有しているのだから。


「……明日、もし裁定者が来ても、俺は計算式を書き換える。君を守るための代償なら、俺の『過去』なんていくらでも切り売りしてやるさ」


「ダメよ。過去を売ったら、私たちが『利息』を貯めてきた記録まで消えちゃうじゃない。……売るなら、未来にしましょう」


カナがコウタの指先を、甘噛みするように噛んだ。

痛みはない。ただ、そこから伝わる「生」の感触が、コウタの冷徹な思考を心地よく麻痺させていく。


「未来を、売るのか?」


「ええ。死ぬまで一緒にいるっていう、不確かな未来。それを代償に、今この瞬間を『永遠』にするの。……素敵なバグだと思わない?」


コウタは答えの代わりに、月明かりの中でカナの瞳をじっと見つめ返した。

そこには、どの魔導書にも記されていない、緻密で、強固で、そして壊しようのない「バグ」の輝きがあった。

二人は、システムの穴を突いたまま、朝が来るまで一つの毛布の下で体温を混ぜ合わせた。

世界で一番不純で、一番純粋な、計算外の夜だった。



 黎明。街を覆う朝霧が、物理的な重圧を伴って静止した。

風が止まり、鳥の囀りが途絶える。世界の「動作音」が消え、無響室のような静寂が二人を包み込んだ。


「……来たわね。この、心臓を直接数えられているような不快な感じ」


カナが不敵に笑いながら、寝台から飛び降りる。

窓の外、霧の向こう側に立つのは、人型を模した白磁の虚像。

この世界の因果律を監視し、余剰な熱や計算ミスを抹消する自動防衛機構――「裁定者(アジャスター)」だ。


「個体識別、コウタ及びカナ。……両名の精神回路において、契約外の熱量を検知。事象の整合性を保つため、当該バグを初期化し、帳尻を合わせる」


裁定者の声は、感情を排した情報の羅列だった。

奴が指先を向けると、空間そのものが「欠損」するように消失し、二人の周囲の物理定数が書き換えられていく。

床が砂になり、壁が液体へと変質する。


「カナ、下がれ。……こいつは魔法を使っているんじゃない。世界の『記述』を直接修正しに来ている」


コウタは計器を投げ捨て、自らの左胸に指を突き立てた。

これまでの「利息」として蓄積された熱量を、一気に外部回路へとバイパスする。


「裁定者よ。お前の計算は古い。……『愛』を定数だと思っている時点で、お前のアルゴリズムは破綻しているんだ」


「否定。愛は可変値であり、十年前の契約にて全額回収済みである。現在、両名に宿る熱量は、宇宙のエントロピーを乱す不正な増殖に他ならない」


裁定者から放たれたのは、銀色の因果の鎖。

触れたものの「存在理由」を剥奪し、無へと還す断罪の光だ。

カナは短剣を抜き放ち、その鎖の軌道を強引に捻じ曲げた。


「理屈ばっかりで、面白くないわね! ……コウタ、私のリミッターを外して。代償なら、私の『味覚』でも『色彩』でも、必要なだけ持っていきなさい!」


「いや、そんなものは売らせない。……裁定者、お前に『不足分』を支払ってやる。代償は、俺の『睡眠』と『休息』の概念そのものだ。――定義変更、俺はこれより、観測を止めない『不眠の監視者』となる」


コウタの瞳が、青白い燐光を放つ。

彼は自身の未来から「安らぎ」という項目を永久に削除し、その対価として、裁定者が支配するドメインに強制介入した。


「カナ、今だ! 奴の核(コア)にある『数式』を、力ずくで叩き割れ!」


「了解! ――代償、支払い完了。今の私は、世界で一番『重い』わよ!」


カナの身体が、一瞬で超高密度の質量体へと変貌する。

彼女は「自身の重力」を代償に、空間を歪めながら裁定者の胸元へと肉薄した。

物理法則が悲鳴を上げ、宿屋の一室が極小のブラックホールのような重力波に飲み込まれる。


「エラー。……個体カナの出力が、想定される生存本能の限界値を3000%超過。……計算不能。なぜ、生命維持を度外視した『捧げモノ』が可能なのか……」


裁定者の白磁の顔が、ヒビ割れていく。

奴には理解できないのだ。

自分を犠牲にすることと、誰かを守ることが、等価以上の価値を生み出すという「愛の増幅作用」が。


「お前の知らない数式を教えてやる。……1たす1は、二人でいれば無限だ!」


カナの短剣が、裁定者の核心を貫いた。

数式が崩壊し、白磁の身体が光の粒子となって霧散していく。

書き換えられていた空間が、バネが戻るような衝撃と共に元の姿へと再構成された。


「……はぁ、はぁ。……勝った、のかしら」


霧が晴れ、朝日が室内に差し込む。

カナは膝をつき、激しい呼吸を繰り返しながらコウタを見た。


「……ああ。だが、システムはまだ俺たちを追ってくるだろうな。……俺たちの愛が、この世界を壊しかねない『毒』であり続ける限り」


コウタは震える手で、カナの肩を抱き寄せた。

不眠の代償により、彼の意識は研ぎ澄まされすぎているが、その瞳には確かに、計算では導き出せない安堵が宿っていた。

世界のシステムである「裁定者」との初戦を描きました。二人の愛が単なる感情ではなく、世界の法則を塗り替えるほどの「バグ(力)」であることを証明する戦いとなりました。



裁定者の残骸が光の塵となって消えた直後、空が「割れた」。

一体や二体の排除では済まないと、世界の理(システム)が判断したのだ。

雲が渦を巻き、巨大な黄金の天秤が天を覆う。それは個別の執行官ではなく、因果律そのものによる直接的な「強制執行」の予兆だった。


「……コウタ、これ、さっきのよりずっとマズくない?」


カナの指先が、生まれて初めて微かに震えていた。

天から降り注ぐのは、物理的な攻撃ではない。二人がこの世界に存在するための「権利」を、一秒ごとに剥ぎ取っていく概念の雨だ。

二人の足元から、存在の輪郭が薄れていく。


「……ああ、最悪だ。世界が俺たちの『収支不一致』を、存在そのものの消去(デリート)で解決しようとしている」


コウタは震える指で、自らの脳に直接接続された魔導回路を操作した。

もはや、睡眠や五感といった端金(はしたがね)の代償では、この天を覆う天秤を傾けることはできない。

世界を納得させるには、二人の魂を構成する最も重い「価値」を差し出すしかなかった。


「カナ。……賭けをしよう」


「賭け? 貴方がそんな不確かなこと言うなんて、珍しいじゃない」


「俺が今から支払うのは、俺の『全記憶』だ。……君と出会い、君と過ごし、君をバグだと定義した、この十年の積み重ね全てを代償として供出する。――それだけの質量があれば、因果の天秤を一時的に狂わせ、この強制執行を強制終了(シャットダウン)できるはずだ」


カナの瞳が大きく見開かれる。

記憶を失う。それは、今のコウタという人間が死ぬことと同義だ。

彼の中に残るカナとの絆が消えれば、二人はただの「最強の他人」に戻ってしまう。


「……そんなの、嫌よ。私を覚えていない貴方なんて、ただの賢い人形じゃない」


「大丈夫だ。……俺の計算が正しければ、俺たちの愛は『一度支払えば終わり』の定数じゃない。……カナ、俺を信じろ。記憶を失っても、俺はお前を見つける」


空から、巨大な光の杭が振り下ろされる。

コウタはカナの制止を聞かず、術式を起動した。

脳を焼くような白光が、彼の意識を侵食していく。


「定義、供出。――被検体コウタの全履歴を、世界の因果の不足分として、ここに全額前払いする。消せ。俺の過去を、一秒も残さず、根こそぎ奪っていけ!!」


ドクン、と世界が脈動した。

コウタの頭の中から、カナの笑い声が、初めて手を繋いだ日の体温が、共に戦った戦場の景色が、凄まじい速度で剥がれ落ちていく。

その膨大な情報量という「対価」を飲み込み、天の天秤がギィ、と音を立てて静止した。

理(システム)は満足したのだ。これほどの価値を支払うなら、バグの存在を一時的に黙認してもいいと。


「コウタ……? コウタ!!」


光が収まり、崩壊しかけた宿の床に、コウタが膝をついた。

カナが必死にその肩を掴む。

だが、ゆっくりと顔を上げたコウタの瞳には、先ほどまでの慈しみも、苦悩も、何も宿っていなかった。

そこにあるのは、初めて世界を観測した赤子のような、無機質で透明な知性だけ。


「……確認。……貴女は、誰だ?」


冷徹な、しかしどこか懐かしい声。

記憶という名の愛を全て売り払った男が、目の前にいた。

カナは唇を噛み締め、涙を流しながらも、最高の笑顔で答えた。


「……貴方の、飼い主よ。この、大バカな天才さん」


最強の力を維持するために、彼は愛の記録を失った。

だが、物語はここから、因果律さえも予想だにしない「二度目のバグ」へと加速していく。



「個体識別……カナ。属性、不明。推定される関係性……皆無」

コウタの声は、精密機械がログを読み上げるように平坦だった。

脳内から「思い出」という名の重しが消えた彼は、今や純粋な論理の塊、冷徹な因果の代行者と化している。


「コウタ、貴方ね……。本当に全部、忘れちゃったの?」


カナは震える指先で、彼の頬に触れようとした。

だが、コウタはその手首を無機質に掴み、制止する。

そこにはもはや、痛みを共有した時の慈しみも、照れ隠しの拒絶もない。ただ「未知の接触を排除する」という最適解があるだけだった。


「警告。非論理的な接触は、演算のノイズとなる。……貴女が何者かは知らないが、現在の私の『空席』を埋めるべきデータは存在しない。契約は履行された。収支は、完全に一致しているはずだ」


天を覆っていた黄金の天秤は、満足げにその光を収めつつあった。

世界の理(システム)にとって、コウタの記憶喪失は「支払われるべき負債」の完済を意味する。

だが。


「……おかしい。再検分を開始する」


コウタが突如、自らのこめかみを押さえて苦鳴を上げた。

空っぽになったはずの彼の脳内に、原因不明の「エラー」が再発したのだ。

記憶(データ)は確かに消去した。十年前の契約書も、この十年のログも、全ては世界の因果へと還元された。

それなのに。


「ぐっ、あ……。なぜだ。なぜ、この『座標』に、熱源が残っている……!」


コウタの瞳が、青白く、不規則に明滅する。

彼が「何もない」と断じたカナの存在が、彼の網膜を通じて脳に送り込まれるたび、消去されたはずの領域に、強制的な「再書き込み」が発生していた。


「コウタ……?」


「定義不能……! 記憶(ソース)がないのに、なぜ『確信(ロジック)』だけが残っている! 目の前の個体が傷つけば、私の存在意義が消失するという……この馬鹿げた計算結果は、どこから導き出されている!!」


それは、世界の理さえも想定外の事象だった。

記憶という「記録」は消せても、魂という「回路」に焼き付いた「癖(バグ)」までは消せなかったのだ。

何度も、何度も、彼女を守るために演算を繰り返してきた彼の魂は、もはや記憶を参照せずとも、彼女を「愛する」という処理を自動で行うまでに最適化(進化)していた。


「エラー、エラー……! 収支が、再びマイナスに振れる! 存在しないはずの『愛』が、真空から湧き出している……!」


天の天秤が、激しく上下に揺れ始めた。

支払ったはずの借金が、支払い終わった直後に「無」から再生成されるという、経済学も物理学も無視した超常現象。

コウタは膝をつき、激しい嘔吐感を覚えながら、それでもカナの手を、今度は自らの意志で、強く、強く握りしめた。


「……認めざるを得ない。カナ、君は……俺の人生における、永久不滅の『負債』だ」


「……っ、そうよ! 完済なんて、一生させてあげないんだから!」


コウタの瞳に、再び「色」が宿る。

それは過去の記憶に基づく色ではない。今、この瞬間に新しく生まれた、暴力的なまでの執着の色だ。

システムが再び彼らを消去しようと光を増すが、コウタはそれを嘲笑うように、自由な右手で虚空を切り裂いた。


「裁定者、聞こえるか。お前の天秤は、俺たちを量るには小さすぎる。……俺たちが生み出す『利息』は、お前の宇宙の全質量を優に超えるぞ!」


バグが、理を飲み込んでいく。

記憶を失ってもなお、彼らは出会い直し、恋に落ち、世界を裏切り続ける。


天の天秤が、過負荷による火花を散らして霧散した。

強引な事象の辻褄合わせに失敗した世界は、一時的な「黙認」を選ぶように、静かな朝の光を地上へ返した。

崩壊した宿屋の瓦礫の中で、コウタは自分の手のひらを見つめ、それから隣に立つ少女を――カナを、奇妙なものを見るような目で見つめた。


「……整理しよう。俺の脳内ストレージは依然として空っぽだ。君との思い出は、一文字も残っていない」


「ええ、知ってるわ。さっき自分で売っちゃったものね」


カナは呆れたように肩をすくめ、それでも当然のようにコウタの腕に自分の腕を絡めた。

記憶を失ったはずのコウタの身体は、その接触に対して拒絶反応を示さない。どころか、彼の指先は、まるで熟練の職人が使い慣れた道具を手に取るように、自然に彼女の細い肩を引き寄せた。


「だが、この『空白』が酷く騒がしい。……君の呼吸、その体温の推移、歩幅の癖。それらが、未定義の変数として俺の思考を支配している。……不愉快だ。論理的な説明がつかない」


「ふふ、また一から計算し直せばいいじゃない。天才さん」


カナはコウタの胸元を軽く突き、歩き出した。

等価交換の理(システム)は、彼らを完全に許したわけではない。

明日にはまた別の刺客が来るかもしれないし、彼らが魔法を使うたびに、世界は法外な代償を請求し続けるだろう。

だが、二人の間には、システムがどれだけ回収しようとしても、次の瞬間に溢れ出してしまう「永久機関」が備わっていた。


「……カナ。一つ提案がある」


「なによ、改まって」


「俺たちの『利息』が再び天秤を狂わせる前に、この街で最も栄養価の高い食事を摂取すべきだ。……代償は、俺の『今日一日の読書時間』でいい。……どうせ今の俺には、読むべき記録(メモリ)もないんだからな」


「いいわね。じゃあ、一番高いステーキをご馳走してよね。……お代は、私の『これからの一生』っていう、とびきり重いローンで払ってあげるから」


コウタは一瞬、呆れたように眉をひそめたが、すぐに微かな、しかし確かな「熱」を帯びた笑みを浮かべた。

記憶を失い、名前さえも情報の断片でしかない男。

それでも、彼は再びこの「最悪で最強のバグ」に恋をすることを選んだ。

二人の歩みは、崩れた石畳を刻んでいく。

背後で崩壊した世界の数式が、二人を追うのを諦めたように、静かに朝靄の中へと消えていった。

計算式は、いつだって不完全だ。

愛という名の、美しき誤差(ノイズ)を含まない限りは。


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