第16章「魔王領からの使者」
その日は、冬の始まりを告げる冷たい風が吹いていた。
空調ギルドの新しい事務所で、透は設計図を前に考え込んでいた。来春に予定されている大規模プロジェクト——王都全域の下水道換気システムの設計だ。
「トール殿、お客様です」
受付係の声に、透は顔を上げた。
「誰だ?」
「それが……名乗らないのです。ただ、『北から来た』とだけ」
透の眉がわずかに動いた。
北。その言葉には、特別な意味がある。
「通してくれ」
数分後、応接室に現れたのは、黒いローブを纏った細身の男だった。
フードを深く被っており、顔は見えない。だが、その身のこなしには、どこか人間離れした優雅さがあった。
「初めまして、サー・トール」
男は低く、しかしよく通る声で言った。
「私は、フリーズガルド様の使者として参りました」
透の心臓が、大きく跳ねた。
フリーズガルド。氷の魔王。極北の地を支配する、人類の敵。
「……座ってくれ」
透は努めて冷静に言った。
「話を聞こう」
使者は、フードを取らなかった。
だが、その手だけは見えた。青白い肌に、鋭い爪。人間のものではない。
「単刀直入に申し上げます」
使者は言った。
「フリーズガルド様は、あなたの技術を必要としています」
「俺の技術を?」
「はい。空調設備の技術を」
透は眉をひそめた。
「魔王が、空調設備を?」
「意外ですか?」
使者の声には、かすかな自嘲が混じっていた。
「魔王城は、極北の地にあります。一年の大半が雪と氷に閉ざされる場所です。外気温は、真冬には氷点下四十度を下回ることもあります」
「……それで?」
「城の暖房が、機能していないのです」
透は目を見開いた。
「暖房が……機能していない?」
「はい。魔王城は千年前に建てられた古い城です。当時の技術で暖房システムが作られましたが、長年の劣化で効率が著しく低下しています。今では、城内でさえ凍えるような寒さです」
使者は続けた。
「魔族は人間より寒さに強いですが、それでも限界があります。特に、子供や老人、病人は——」
使者の声が、わずかに震えた。
「毎年、冬を越せない者がいます」
透は黙って聞いていた。
「フリーズガルド様は、民を守りたいのです。そのために、あなたの技術が必要なのです」
「なぜ、俺なんだ」
透は言った。
「魔族には、優れた魔法使いがいるだろう。人間の技術者に頼る必要があるのか?」
「魔法では、解決できない問題なのです」
使者は答えた。
「暖房に必要な火魔石は、限りある資源です。現在の非効率なシステムでは、莫大な量を消費してしまう。このままでは、数十年後には枯渇します」
「だから、効率的なシステムが必要だ、と」
「はい。あなたが王城に導入したシステムは、従来の三割以上の効率向上を達成したと聞いています。同じことを、魔王城でもできないでしょうか」
透は考え込んだ。
魔王城の暖房改修。それは、単なる技術的課題ではない。政治的、外交的な意味を持つ巨大なプロジェクトだ。
「一つ、聞きたいことがある」
透は言った。
「魔王は、なぜ人間と敵対している?」
使者は少し黙った。
やがて、ゆっくりと答えた。
「……敵対している、というのは、正確ではありません」
「どういう意味だ?」
「フリーズガルド様は、人間を滅ぼしたいわけではありません。ただ、極北の地を守りたいだけなのです」
「守る?」
「はい。極北には、魔族だけでなく、多くの生き物が暮らしています。彼らの故郷を、外部の侵略から守る。それが、フリーズガルド様の役目です」
使者は続けた。
「かつて、人間の王国が極北に侵攻してきたことがありました。鉱物資源を求めて。その時、フリーズガルド様が立ち向かい、侵略者を追い払いました。それ以来、人間にとって『魔王』は敵なのです」
「……なるほど」
透は頷いた。
「つまり、魔王は『侵略者』ではなく『防衛者』だ、と」
「そうです」
使者は言った。
「人間側の歴史では、違うように伝えられているかもしれませんが」
透は腕を組んだ。
歴史は、勝者によって書かれる。それは、どの世界でも同じだ。
「分かった。検討させてくれ」
透は立ち上がった。
「回答は、三日後に」
「ありがとうございます」
使者も立ち上がった。
「一つだけ、お伝えしておきます」
「何だ?」
「フリーズガルド様は、報酬として、火魔石の提供を申し出ています。極北でしか採れない、高品質の火魔石を」
透の目が光った。
火魔石。暖房システムの核となる鉱物。それが安定的に供給されれば、空調ギルドの事業は大きく拡大する。
「……考えておく」
使者が去った後、透は一人で考え込んでいた。
魔王城の暖房改修。
技術的には、可能だろう。離宮の空調システムと同じ原理を応用すれば、効率的な暖房システムを構築できるはずだ。
だが、問題は政治だ。
魔王は、グランヴェルト王国にとって「敵」だ。その敵に協力すれば、透は「裏切り者」と見なされる可能性がある。
「難しい判断だな」
「話は聞きました」
背後から声がした。振り返ると、リーナが立っていた。
「盗み聞きか?」
「情報収集です。宮廷魔導師として」
リーナは透の向かいに座った。
「魔王からの依頼。驚きましたか?」
「正直、驚いた。魔王が暖房に困っているとは思わなかった」
「魔族も、私たちと同じ生き物ですから」
リーナは言った。
「寒さに凍え、飢えに苦しむ。そういう点では、人間と変わりません」
「……ああ」
「トール殿は、どうしますか?」
透は窓の外を見た。
冬の空は灰色で、雪がちらついている。
「俺は——」
透は言った。
「この世界に来てから、ずっと一つのことを考えてきた」
「何ですか?」
「快適、ということだ」
透はリーナを見た。
「暑い夏には涼しく、寒い冬には暖かく。それが、空調設備の役割だ。人種も、国籍も、敵味方も関係ない。誰もが、快適に暮らす権利がある」
「……」
「魔族の子供が、冬を越せずに死んでいく。それを知って、何もしないでいられるか?」
リーナは黙って透を見つめていた。
「俺は、行く」
透は言った。
「魔王城の暖房を直す。それが正しいことだと信じている」
「政治的なリスクは?」
「承知の上だ。だが、間違ったことはしていない。技術者として、正しいことをする。それだけだ」
リーナは、ゆっくりと頷いた。
「……私も、一緒に行きます」
「リーナさん?」
「宮廷魔導師として、この交渉を見届ける義務があります。それに——」
リーナは微笑んだ。
「あなたの技術を、最後まで見届けたいのです」
透は、わずかに目を細めた。
「……ありがとう」
三日後、透は国王に謁見を求めた。
「魔王城の暖房改修を引き受けたい、と?」
国王は、複雑な表情で透を見た。
「はい、陛下」
「理由は?」
「魔族の民が、寒さで死んでいます。それを防ぐ技術が、俺にはあります。使わない理由がありません」
「だが、魔王は我が国の敵だ」
「敵、でしょうか」
透は言った。
「使者の話を聞く限り、魔王は侵略者ではなく、自分の領土を守っているだけです。もし、技術協力を通じて関係を改善できれば——」
「和平の可能性がある、と?」
「断言はできません。ですが、試す価値はあると思います」
国王は長い間黙っていた。
やがて、口を開いた。
「……正直に言おう。私も、魔王との戦いには疲れていた」
「陛下……」
「毎年、国境警備に莫大な費用がかかる。兵士が死ぬ。民が苦しむ。だが、誰も和平の道を探ろうとしなかった。『魔王は敵だ』という固定観念に、縛られていた」
国王は透を見た。
「君は、その固定観念を打ち破ろうとしている」
「俺は、ただの技術者です。政治のことは分かりません。ただ——」
「ただ?」
「快適に暮らしたいという願いは、誰にでもあると思います。人間も、魔族も。そこに、共通点があるはずです」
国王は、ゆっくりと頷いた。
「……行ってこい」
「陛下?」
「魔王城の暖房を直してこい。そして、もし可能なら——和平の糸口を探ってこい」
「ありがとうございます」
透は深く頭を下げた。
「ただし、条件がある」
「何でしょう」
「リーナを連れていけ。彼女は、王家の代理人として同行する。そして、定期的に報告を送れ」
「分かりました」
透は再び頭を下げた。
「必ず、成功させます」
出発の準備は、一週間で整った。
透、リーナ、ガルド。三人が、極北への旅に出る。
「師匠、本当に行くんですね」
ガルドは、荷物を積みながら言った。
「魔王の城に」
「ああ」
「怖くないですか?」
「怖いさ」
透は正直に答えた。
「だが、怖いからといって、正しいことをやめるわけにはいかない」
ガルドは頷いた。
「俺も、ついていきます。師匠がどこに行っても」
「頼もしいな」
透は微笑んだ。
「行くぞ」
馬車が動き出す。
王都の門をくぐり、北へ向かう街道へ。
窓の外を、雪が舞い始めていた。
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