第9章「気密試験の夜」



北方の山岳地帯への旅は、予想以上に過酷だった。


馬車で十日。道は次第に険しくなり、最後の三日間は馬を降りて徒歩で山道を進んだ。透の足には、異世界に来てから初めてマメができた。


「見えてきました」


リーナが前方を指差した。


山の中腹に、灰色の建物群が見える。煙突から黒い煙が上がり、金属を打つ音が風に乗って聞こえてくる。


「あれが、氷魔石の鉱山です」


「思ったより大きいな」


「グランヴェルト王国最大の氷魔石産地ですから。ここから産出される石が、王国全土に供給されています」


二人は鉱山の入口に向かった。門番に宮廷魔導師の証を見せると、すんなりと中に通された。


鉱山の管理事務所は、質素だが清潔な建物だった。中年の男が出迎えてくれる。


「宮廷魔導師様が、こんな辺鄙な場所まで。何かご用件で?」


「氷魔石を購入したいのです。大量に」


リーナは端的に要件を告げた。


「商人を通さず、直接買い付けることはできますか?」


管理人は少し困惑した表情を浮かべた。


「通常は、王都の商人ギルドを通じて取引しておりまして……」


「事情があります」


透が口を開いた。


「王城の改修工事に必要な氷魔石が、商人ルートで手に入らなくなりました。妨害を受けているのです」


「妨害?」


「詳しくは申し上げられませんが、政治的な問題が絡んでいます。このまま商人ルートに頼っていると、工事が止まります」


透は管理人の目を真っ直ぐに見た。


「国王陛下から直接依頼を受けた工事です。失敗は許されません。産地から直接購入することで、妨害を回避したいのです」


管理人はしばらく考え込んだ。


「……分かりました。王家の工事とあらば、協力しないわけにはいきません。ただし、条件があります」


「条件?」


「うちの鉱山も、最近困っていることがあるのです。それを解決していただければ、特別価格で氷魔石をお譲りします」


「困っていること、とは?」


管理人は窓の外を見た。


「鉱山の換気システムが、不調なのです」




鉱山の坑道は、想像以上に深かった。


入口から数百メートル下った場所に、採掘現場がある。透は管理人の案内で、坑道の奥へと進んだ。


「ここから先は、空気が薄くなります。長時間いると、頭痛や吐き気を催しますので、ご注意ください」


管理人の言葉通り、坑道の奥に進むにつれて、空気が重くなっていくのを感じた。息苦しさ、胸の圧迫感。


「換気が機能していないのか」


透は周囲を観察した。


坑道の壁には、等間隔で通気口のようなものが設けられている。だが、そこから風が流れている気配がない。


「本来なら、この通気口から新鮮な空気が送り込まれるはずなのですが……半年ほど前から、ほとんど機能しなくなりました」


「原因は?」


「分かりません。魔道具師を呼んで調べてもらいましたが、『寿命だ、新しいものに交換するしかない』と言われました」


「換気システムの魔道具は、どこにある?」


「坑道の入口近くです」


透は管理人と共に、入口付近に設置された機械室に向かった。


機械室には、巨大な木製の箱が二台置かれていた。どちらも、透がこれまで見てきた魔道具と同じ構造だ。氷魔石(この場合は風魔石だろう)を核として、金属コイルが巻かれている。


「これで坑道内に風を送り込んでいるのか」


「はい。本来は、風魔石に魔力を込めると、強い風が発生して坑道の奥まで届くはずなのですが……」


透は魔道具に近づき、観察を始めた。


外装を開け、内部を確認する。


「……やはり」


予想通りだった。


金属コイルには、黒い酸化被膜がびっしりと付着している。さらに、風を送り出すはずのダクトには、粉塵が堆積して流路を塞いでいる。


「これは、メンテナンス不足だな」


「メンテナンス?」


「定期的な清掃と点検のことだ。この魔道具は、おそらく設置以来、一度も清掃されていない」


透は管理人を見た。


「この魔道具、いつ設置された?」


「三十年ほど前です」


「三十年間、一度もメンテナンスせずに使い続けていたのか」


管理人は困惑した表情を浮かべた。


「メンテナンスという概念が……そもそも、魔道具は壊れたら交換するものだと思っていました」


透は内心でため息をついた。


この世界には、「予防保全」という概念がない。壊れるまで使い続け、壊れたら捨てて新しいものを買う。それが当たり前の文化になっている。


だが、それでは効率が悪すぎる。定期的にメンテナンスすれば、設備の寿命は何倍にも延びる。トータルコストも下がる。


「直せます」


透は言った。


「この魔道具、新品に交換する必要はありません。清掃と修理で、元の性能を取り戻せます」


管理人の目が見開かれた。


「本当ですか?」


「ええ。ただし、作業に二日ほどかかります。その間、坑道への立ち入りは控えてください」


「分かりました。作業に必要なものは、何でも用意します」




翌日から、透は換気システムの修理に取りかかった。


リーナが手伝ってくれた。彼女の風魔法は、この作業に最適だった。


「まず、ダクト内の粉塵を吹き飛ばします」


透はダクトの端に立ち、リーナに指示を出した。


「強すぎる風を送ると、ダクトを傷める可能性があります。最初は弱めに、徐々に強くしていってください」


「分かりました」


リーナが手をかざす。淡い光と共に、風がダクトの中を吹き抜けていく。


ごうごうという音と共に、大量の粉塵が反対側から噴き出した。


「すごい量ですね……」


「三十年分の蓄積だからな。これだけ詰まっていれば、風が通らないのも当然だ」


清掃作業を続けながら、透は技術ノートにメモを取った。


「課題:この世界に、定期メンテナンスの文化を根付かせる」


今回の鉱山のケースは、典型的な例だろう。魔道具は「使い捨て」ではなく、「維持管理」するものだという意識が、この世界にはない。


それを変えなければ、いくら高性能な設備を作っても、すぐに劣化してしまう。


「トール殿」


リーナが声をかけてきた。


「次は何をすればいいですか?」


「金属コイルの酸化被膜を除去する。いつもの方法で」


「分かりました」


リーナがヤスリと木灰を手に取る。この数週間で、彼女は透の作業手順を完全に習得していた。


二人は黙々と作業を続けた。




二日後。


修理が完了した換気システムは、見違えるように動作を開始した。


「おお……!」


坑道の奥から、新鮮な風が吹き抜けてくる。作業員たちが歓声を上げた。


「息が楽になった!」


「こんなに風が通るのか!」


管理人は、感嘆の表情で透を見つめていた。


「信じられません。三十年前の設置当初よりも、風が強いくらいです」


「ダクトの配置を少し変えました。元の設計では、途中で風の勢いが失われていた。より効率的なルートに修正しています」


「設計を……変えた?」


「ええ。図面を引き直して、最適な配置を計算しました」


透は懐から図面を取り出した。


「これが、修正後の換気システム図です。今後のメンテナンスの際に、参考にしてください」


管理人は図面を受け取り、食い入るように見つめた。


「これは……すごい。こんな詳細な図面、見たことがありません」


「メンテナンスのスケジュールも作りました。三ヶ月に一度、ダクト内を清掃する。六ヶ月に一度、金属コイルを点検する。これを守れば、この設備はあと三十年は使えます」


「三十年……」


管理人は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」




帰路の馬車には、大量の氷魔石が積まれていた。


「約束通り、特別価格で譲っていただけました」


リーナが満足そうに言った。


「市場価格の七割ほどです。シルヴィアさんが喜びますね」


「ああ」


透は窓の外を見ていた。


「それにしても」


リーナは透の横顔を見つめた。


「あなたは、行く先々で人を助けますね。エルスト領の館、王城、そして今回の鉱山。求められていないことまで、進んでやっている」


「求められていない、か」


透は苦笑した。


「確かに、今回の換気システム修理は、氷魔石を買うための『交換条件』だった。だが——」


「だが?」


「坑道で働く作業員たちのことを考えると、放っておけなかった。息苦しい環境で働き続けることの辛さは、俺にも分かるから」


リーナは何も言わなかった。ただ、静かに透を見つめていた。


「俺の世界では」


透は続けた。


「『現場』で働く人間は、しばしば軽視される。オフィスで書類を作る人間の方が偉くて、汗を流して働く人間は下に見られる。だが、実際に価値を生み出しているのは、現場の人間だ」


「……」


「鉱山の作業員たちも同じだ。彼らがいなければ、氷魔石は採れない。彼らの働きがあるから、王都の人々は涼しい夏を過ごせる。そういう人たちが、少しでも楽に働けるようにする。それが、俺の仕事だと思っている」


馬車が揺れる。窓の外を、緑の山並みが流れていく。


リーナは、しばらくしてから口を開いた。


「あなたは、不思議な人ですね」


「よく言われる」


「……褒めているのですよ」


リーナの声には、かすかな温かみが含まれていた。


透は少しだけ微笑んだ。




王都に戻ったのは、出発から二十日後のことだった。


「師匠!」


ガルドが門の前で待っていた。その顔は、疲労と安堵が入り混じった表情だった。


「無事でしたか!」


「ああ、無事だ。現場は?」


「何とか守りました。でも——」


ガルドの表情が曇った。


「問題が起きました」


「何があった?」


「配管工事は予定通り完了しました。気密試験の準備も整っています。ですが……」


ガルドは声を落とした。


「昨晩、何者かが離宮に侵入しようとしました」


透の目が細くなった。


「侵入?」


「夜警が発見して追い払いましたが、相手の正体は分かっていません。ただ……」


「ただ?」


「侵入を試みたのが、ちょうど配管系統の集中している区画だったんです。偶然とは思えません」


透は眉をひそめた。


公爵の妨害が、本格化している。


資材調達を邪魔するだけでなく、直接破壊工作を仕掛けてきた。


「今夜から、気密試験を始める」


透は決断した。


「二十四時間、圧力を維持する。その間、交代で監視を行う」


「分かりました」


「ガルド、お前は今夜は休め。疲れているだろう」


「でも——」


「命令だ。疲労が溜まった状態で監視をしても、判断力が鈍る。しっかり休んで、明日の朝から交代しろ」


ガルドは少し躊躇してから、頷いた。


「……分かりました」




その夜。


透は離宮の機械室で、圧力計を見つめていた。


午後六時に加圧を開始。現在は午後十時。四時間が経過している。


圧力は安定している。四・一五メガパスカル。設計圧力だ。


「トール殿」


リーナが、温かい飲み物を持って入ってきた。


「少し休んでください。私が見ています」


「ありがとう。だが、まだ大丈夫だ」


「強情ですね」


「現場監督の性分だ」


透は苦笑した。


「前世でも、気密試験の夜は眠れなかった。何か問題が起きるんじゃないか、圧力が下がるんじゃないかと、ずっと心配で」


「今回は特に、ですね」


「ああ」


透は窓の外を見た。


月明かりが、離宮の庭を照らしている。静かな夜だ。だが、どこかに敵が潜んでいるかもしれない。


「リーナさん」


「はい」


「もし侵入者が来たら、魔法で足止めできますか?」


「もちろん。氷属性の拘束魔法なら、お手のものです」


「頼んだ」


二人は、静かに監視を続けた。




午前二時。


異変が起きた。


「……!」


透の耳が、かすかな物音を捉えた。


機械室の外。足音だ。複数の人間が、忍び足で近づいてくる。


「リーナさん」


透は小声で囁いた。


「来た」


リーナの目が鋭くなった。


彼女は無言で立ち上がり、ドアの脇に身を隠した。


数秒後。


ドアが静かに開いた。


黒い服を着た人影が、三つ。いずれも覆面で顔を隠している。


先頭の一人が、懐から何かを取り出した。


ハンマーだ。配管を破壊するつもりだ。


「動くな」


透の声が響いた。


侵入者たちが身構える。


だが、遅かった。


リーナの手から、青白い光が放たれた。


「氷縛(ひょうばく)」


床から氷の柱が伸び上がり、侵入者たちの足首を拘束した。彼らは逃げようとしたが、氷は硬く、動くことができない。


「うっ……!」


「何者だ」


透は侵入者の一人に近づいた。


「誰に命じられた?」


侵入者は答えない。ただ、憎悪の目で透を睨みつけている。


「答えろ」


「……言うわけがないだろう」


覆面の奥から、低い声がした。


「俺たちは、雇われただけだ。誰に雇われたかは知らない」


「嘘だな」


透は言った。


「配管系統の位置を正確に知っている。内部の情報を持っている人間が、お前たちを導いた」


侵入者は黙った。


「いい。答えなくていい」


透は立ち上がった。


「お前たちは、王城への不法侵入と器物損壊未遂で捕縛される。証拠は十分だ。あとは、法廷で全てが明らかになる」


透はリーナを振り返った。


「衛兵を呼んでくれ。こいつらを引き渡す」


「分かりました」


リーナが部屋を出ていく。


透は再び圧力計に目を向けた。


四・一五メガパスカル。変化なし。


配管は無事だ。


透は深く息を吐いた。




午前六時。


気密試験は、残り十二時間を残していた。


「師匠!」


ガルドが駆け込んできた。


「大丈夫ですか! 侵入者が来たと聞いて——」


「問題ない。捕まえた」


「捕まえた……?」


ガルドは呆然とした表情を浮かべた。


「リーナさんの魔法でな。俺は見てただけだ」


「でも、すごいですよ。夜通し監視を続けて、侵入者も撃退して……」


「仕事だ」


透は言った。


「現場監督は、現場を守るのが仕事だ。職人が安心して働けるように、障害を排除する。それが俺の役割だ」


ガルドは何か言いたそうにしていたが、結局、黙って頷いた。


「師匠。交代します。休んでください」


「ああ。頼んだ」


透は圧力計をガルドに託し、機械室を出た。


廊下に出ると、朝日が窓から差し込んでいた。


眩しい光に目を細めながら、透は思った。


あと十二時間。


この試験を乗り越えれば、工事は次のフェーズに進む。


「もう少しだ」


透は呟いた。


「もう少しで、完成する」




午後六時。


二十四時間が経過した。


透は圧力計を確認した。


「圧力、四・一四メガパスカル」


わずかに下がっている。だが、これは外気温の変化による誤差の範囲内だ。


「温度補正を行います」


透は昨日と今日の気温差を確認し、計算を行った。


「補正後の圧力変化、ゼロ・〇一メガパスカル以下。許容範囲内です」


リーナ、ガルド、シルヴィアが、固唾を呑んで見守っている。


透は顔を上げた。


「気密試験、合格です」


歓声が上がった。


ガルドが拳を振り上げ、シルヴィアが安堵のため息をつき、リーナが微笑んだ。


「やりましたね、トール殿」


「ああ」


透も、ようやく笑みを浮かべた。


「これで、配管系統の品質は保証された。次は、魔道具の設置と試運転だ」


「まだ続くんですね」


「当然だ。工事は、完成するまで終わらない」


透は全員を見回した。


「だが、今夜は休もう。全員、よくやった」


四人は、疲れた足取りで機械室を後にした。


外では、夕焼けが空を染めていた。

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