第7章「積算という戦い」
離宮の現場調査は、三日間に及んだ。
透は建物の隅々まで歩き回り、寸法を測り、既存の魔道具を点検し、詳細な図面を作成した。ガルドとリーナも、それぞれの持ち場で作業を進めた。
「これが、離宮の平面図です」
透は、会議室に広げた図面を指差した。
出席者は、リーナ、ガルド、そして——
「商人ギルドのシルヴィア・ダクトンと申します」
金髪の若い女性が、にこやかに自己紹介した。二十代後半だろうか。知的な目と、商人らしい抜け目のない雰囲気を持っている。
「リーナ様のご紹介で参りました。この工事の資材調達と経費管理を担当させていただきます」
「よろしくお願いします」
透は頭を下げた。
王城の工事には、膨大な資材が必要になる。銅管、金属板、木材、氷魔石、火魔石。それらを適正な価格で調達し、予算内に収めるためには、専門家の力が必要だった。
「では、見積もりの説明に入ります」
透は、別の書類を取り出した。
「今回の工事は、三つの区分に分けて管理します」
「区分?」
シルヴィアが首を傾げた。
「A工事、B工事、C工事です」
透は説明した。
「A工事は、王家が費用を負担し、王家が指定した業者が施工する工事。建物の躯体や、基幹設備がこれに該当します。今回の場合、主要なダクトと配管系統がA工事になります」
「B工事は?」
「王家の要望に基づいて行われる工事ですが、施工業者は私が選定します。各部屋の吹出口や、細かな調整作業がこれに該当します」
「そしてC工事は?」
「王家が自由に行える工事です。インテリアの変更や、魔道具の配置換えなど、私たちの工事に影響しない範囲で、王家が独自に進められます」
シルヴィアは目を丸くした。
「そんな区分け、聞いたことがありません」
「俺の世界では、標準的な方法でした。責任の所在を明確にし、費用の透明性を確保するためです」
透は見積書を指差した。
「この見積書には、各工事区分ごとの費用を明示しています。材料費、労務費、諸経費。そして——」
透は一つの項目を指差した。
「職人組合保証金」
「これは何ですか?」
「この工事に従事する職人たちの、社会保障費用です」
シルヴィアの表情が、わずかに硬くなった。
「社会保障……ですか」
「はい。職人が怪我をした場合の治療費、家族の生活保障、老後の年金。そういった費用を、工事費用の中に含めます」
「ですが、そのような慣行は——」
「この世界にはない。分かっています」
透は言った。
「だからこそ、今回から始める。職人を使い捨てにする仕事は、長続きしない。良い職人を確保するためには、彼らの生活を保障する必要がある」
シルヴィアは難しい顔をした。
「お気持ちは分かります。ですが、この費用を上乗せすると、総額がかなり膨らみます。王家が承認するかどうか……」
「承認してもらう」
透は断言した。
「この費用は、正当なコストです。隠すべきものではない。むしろ、明示することで、王家にも納得してもらう」
「どうやって?」
「説明します。なぜこの費用が必要なのか、なぜこの費用を払うことが王家の利益になるのか。論理的に、データを示して説明します」
シルヴィアは、しばらく透を見つめていた。
やがて、彼女は小さく笑った。
「面白い方ですね、トール殿」
「よく言われます」
「分かりました。私もその説明に同席させてください。商人として、学ぶことが多そうです」
見積書を国王に提出したのは、翌日のことだった。
「職人組合保証金……」
国王は、見積書を眺めながら呟いた。
「この項目について、説明してもらおうか」
「はい、陛下」
透は一歩前に出た。
「この費用は、工事に従事する職人たちの生活を保障するためのものです」
「職人の生活?」
「はい。高所作業や重量物の運搬など、危険を伴う作業が多くあります。万が一、職人が怪我をした場合、治療費や休業中の生活費を保障しなければ、彼らは安心して働けません」
「だが、それは職人自身の問題ではないか」
「表面上はそうかもしれません。しかし、職人が不安を抱えながら働けば、作業の質が下がります。事故も増えます。結果として、工期の遅延やコストの増大につながります」
透は一枚の紙を取り出した。
「これは、俺の世界のデータです。職人の福利厚生を充実させた企業は、そうでない企業に比べて、事故率が三十パーセント低く、生産性が二十パーセント高いという結果が出ています」
「ほう……」
国王は興味深そうに紙を見た。
「安全と効率は、相反するものではないのです。むしろ、安全を確保することが、効率の向上につながる。これは、俺の世界で百年以上かけて証明されてきた事実です」
透は言った。
「陛下。この費用を惜しむと、短期的にはコストが下がるかもしれません。しかし、長期的には、より大きなコストを払うことになります。事故、遅延、品質低下。そして何より、優秀な職人が集まらなくなります」
国王は黙って聞いていた。
「王城の工事を成功させるためには、最高の職人が必要です。最高の職人を集めるためには、最高の待遇を用意しなければなりません。それが、この費用の意味です」
長い沈黙が流れた。
やがて、国王は口を開いた。
「そなたは、職人のことを大切に思っているのだな」
「はい」
「なぜだ?」
透は少し考えてから答えた。
「俺自身が、職人だったからです。現場で働き、汗を流し、危険と隣り合わせで仕事をしてきた。だから、職人の苦労が分かる。彼らを守りたいと思う」
国王は、透の目を見つめた。
「……よかろう」
国王は見積書に署名した。
「この見積もりを承認する。職人組合保証金も含めてな」
「ありがとうございます、陛下」
透は深く頭を下げた。
「だが」
国王は付け加えた。
「結果は出してもらうぞ。職人を守るための費用を払うのだ。その職人たちが、最高の仕事をすることを期待している」
「必ず、ご期待に応えます」
謁見の間を出ると、シルヴィアが待っていた。
「お見事でした」
彼女は拍手をした。
「職人の福利厚生を、経営上の利益として説明する。私には思いつかない発想でした」
「嘘は言っていない」
透は言った。
「本当にそうだからだ。安全は、効率の基盤だ。そこを疎かにする組織は、必ず崩壊する」
「ええ、それは分かります。ですが、多くの人は、目先のコスト削減を優先してしまう。長期的な視点で物事を見られる人は、そう多くありません」
シルヴィアは透を見つめた。
「トール殿。あなたのやり方は、この世界の常識を変えるかもしれません」
「大げさだ」
「いいえ、本気で言っています」
彼女は微笑んだ。
「この工事が成功すれば、あなたの方法は『王城方式』として、他の工事にも広まるでしょう。それは、この国の建設業界全体を変える可能性がある」
透は何も言わなかった。
そこまで大きなことを考えていたわけではない。ただ、自分が正しいと思うことをやっているだけだ。
だが、シルヴィアの言葉には、一理あった。
王城の工事は、この国で最も注目される事業だ。ここで新しいやり方を示せば、他の場所にも波及する可能性がある。
「まずは、目の前の仕事を成功させる」
透は言った。
「大きなことを考えるのは、それからだ」
「ええ、その通りですね」
シルヴィアは頷いた。
「では、資材の調達を始めましょう。見積もりが通ったのですから、時間を無駄にはできません」
その夜、透は宿の部屋で、見積書の控えを見つめていた。
職人組合保証金。
その項目に目を止める。
前世で、透が最も大切にしていた価値観の一つだ。
建設業界は、長い間、労働者の権利が軽視されてきた。低賃金、長時間労働、危険な作業環境。社会保険に入っていない職人も多かった。
透は、それを変えたいと思っていた。一人の現場監督として、できることには限りがあったが、少なくとも自分の現場では、職人を大切に扱おうとしてきた。
そして今、この世界で——
同じことをやろうとしている。
「……変えられるかもしれないな」
透は呟いた。
この世界には、まだ「労働者の権利」という概念が根付いていない。だからこそ、今ならば、最初から正しい形を作ることができる。
前世でできなかったことを、ここでやる。
それが、この世界に来た意味なのかもしれない。
透は技術ノートを開き、新たなページに書き込んだ。
「目標:この世界の建設業界に、安全と品質の基準を確立する」
ペンを置いて、天井を見上げた。
長い道のりになるだろう。
だが、最初の一歩は、踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます