棚と花
三角海域
棚と花
深夜二時の配送センターは、蛍光灯の白い光に満たされていた。
番重を積み上げながら、腰の奥で何かが軋むのを重松健一は感じる。六十八歳の骨は、もう若い頃のようには動いてくれない。湿布を貼った箇所がすうすうと冷たい。それでも手を止めるわけにはいかなかった。今日のルートは十二カ所。夜明けまでに配り切らなければ、朝の陳列に間に合わない。
外は雨だった。
軽バンの荷台に最後の番重を押し込むと、プラスチックが鈍い音を立てた。健一はドアを閉め、運転席に乗り込む。シートに染みついた古い埃の匂い。エンジンをかけると、ワイパーが雨粒を払い始める。フロントガラスの向こうで、国道の街灯が滲んでいた。
ハンドルを握る指は節くれだっている。
定年後にこの仕事を始めてそれなりになる。朝が来る前に、誰かの朝食を運ぶ。それだけのことだった。誰も褒めはしない。感謝もされない。棚に並んでいるのが当たり前で、なければクレームになる。それでも健一は、自分の仕事に誇りを持っていた。少なくとも、持っているつもりではあった。けれど、最近はその誇りも、諦めに変わってきていた。
アクセルを踏むと、車は夜の中へ滑り出していく。
◇
同じ頃、とあるアパートでは、有村遥が小さな作業台に向かっていた。
部屋の隅には、今日売れ残った花が水に浸けてある。チューリップ、カーネーション、スイートピー。どれも市場から仕入れたばかりの頃は、まっすぐだった。それが今は茎が曲がり、花びらの先が茶色く変色している。
遥は一本のチューリップを手に取った。
茎は途中から不自然に折れ曲がっている。もう売り物にならない。花を掴む遥の指先は冷たかった。窓の外では雨が降り、部屋の中まで湿気が忍び込んでくる。
ゴミ袋はすぐそこにある。
入れてしまえば楽だった。花は燃えるゴミになり、明後日には収集車が持っていく。金にならないものに時間を使う余裕など、本当はない。来月の家賃だって怪しいのだ。
それでも、手が動かなかった。
「どうしようか」
誰にともなく呟いて、遥は息をついた。
フリーランスの花屋を始めて三年になる。店舗を持たず、SNSで注文を受けて配達する。そんなやり方で、なんとか生活は成り立っていた。けれど本当にこれでいいのかという問いは、いつも胸の底に沈んでいる。世の中には花屋など星の数ほどあって、自分がいなくても誰も困らないのではないか。
代わりはいくらでもいる。
遥は曲がったチューリップを見つめた。
この花をどうするか。それを決めることが、何か大きな問いに答えることのように思えてならなかった。
◇
健一は最初の配送先に着いた。
チェーンのコンビニだった。裏口の扉を開けると、店員がこちらを見た。二十代くらいの男だ。健一が会釈すると、店員は小さく舌打ちをする。早くしろという意味だろう。
「おはようございます」
健一が言っても、店員は何も答えなかった。スマホの画面から目を上げようともしない。
番重を台車に積んで、バックヤードへ運ぶ。腰がまた痛む。けれど健一は顔に出さなかった。弱音を吐けば、すぐに切られる。個人事業主に労働基準法はない。代わりはいくらでもいる。
商品を棚に並べる作業は、店員の仕事だった。けれど健一は、陳列棚の前まで番重を運び、サンドイッチを手前数列だけ並べる。別にやらなくてもいい仕事だ。でもやらずにはいられない。
賞味期限を確認し、商品の向きを揃える。
ミリ単位の調整だった。誰も気づかない。でも健一には分かる。この棚を見た客が、無意識のうちに「整っている」と感じる。その安心感が、朝の一歩を支えるかもしれない。
そんなことを考えながら、健一は最後の一個を置いた。
完璧な列ができている。
ふと顔を上げると、店員がこちらを見ていた。健一が並べたサンドイッチに、ではない。健一自身を、値踏みするような目で見ている。
健一は台車を押して、雨の中へ戻った。
◇
遥は決めた。
この曲がったチューリップを、捨てない。誰かに見てもらう。
雨はまだ降っていたけれど、弱くなっていた。遥はチューリップを持って、近所の小さな神社へ向かった。歩いて十分ほどの場所にある、静かな場所。
神社の境内は濡れていた。
社務所の明かりがついている。遥が手水鉢に近づくと、奥から神職の男性が姿を見せた。
目が合った。
神職の眉が、わずかに寄った。
遥の心臓が跳ねる。怒られる。そう思った。こんな夜中に見知らぬ女が花を持って現れて、不審に思わないはずがない。何をしているのか、ここで何をするつもりなのか。問い詰められたら、なんと答えればいいのだろう。
遥は軽く会釈をした。声が出なかった。手にしたチューリップが、雨粒を受けて揺れる。
神職は花を見た。それから遥の顔を見た。
長い沈黙だった。
やがて神職は、何も言わずに小さく頷いた。そのまま奥へ戻っていく。
遥はほっと息をついた。手が震えていた。
手水鉢の水面に、雨粒が波紋を描いている。遥はしゃがみ込んで、チューリップの茎を水に浸した。曲がった茎が、水の中でゆらりと揺れる。
このまま置いていけば、朝には誰かが見るだろう。
神職か、散歩の人か。誰でもいい。ただこの花が、誰かの目に触れる。それだけで意味があるような気がした。
遥はスマホを取り出して、手水鉢の花を撮影した。茎が優雅な曲線を描いているように感じられた。欠点が、個性に変わる瞬間だった。
雨上がりの空気が頬を撫でた。切り戻した茎の青臭さと、冷えた土の湿った匂い。それらが混ざり合って、朝が近いことを告げている。
◇
健一は次の配送先へ向かっていた。
フロントガラスを叩く雨は、もうほとんど止んでいる。ワイパーが乾いたガラスを擦る音だけが、車内に響いていた。
腰の痛みは増している。
信号で停車すると、隣の車線をタクシーが追い越していった。運転手は健一より若く見えた。それでも五十代だろう。あと十年もすれば、自分と同じように体のあちこちが悲鳴を上げる。
健一は自分の手を見た。
節くれだった指。血管が浮き出ている。若い頃はもっと滑らかだったはずだ。
仕事は、辞められない。
辞めたら何が残る。年金だけでは暮らせない。貯金もない。でもそれ以上に、仕事を辞めたら自分という存在が薄れてしまう気がした。
誰かの役に立っている。
その実感だけが、健一を支えていた。
◇
神社から戻り、遥は部屋で動画を編集していた。
手水鉢の花を、様々な角度から撮影した映像をつなぎ合わせる。BGMは使わない。ただ水の音と、風の音だけ。
曲がったチューリップが、静かに揺れている。
編集を終えて、遥は投稿ボタンの上で指を止めた。
これを投稿して、どうなる。
「いいね」がつく。見知らぬ誰かが、数秒だけ画面を眺めて、指を動かす。それだけのことだ。花は救われない。自分も救われない。ただ数字が増えて、承認欲求が満たされる。それだけのことではないのか。
結局、自分のためにやっているのではないか。
遥は唇を噛んだ。
それでも、指は動いた。キャプションには何も書かない。ただ「#曲がった花」とだけタグをつける。
投稿ボタンを押すと、画面が切り替わった。
遥はスマホを置いて、窓の外を見た。
空が少しずつ明るくなっている。夜明け前の、青い時間。ブルーアワーと呼ばれる、一日で最も静かな時刻。
遥は疲れていた。
花を救うことで、自分が救われるわけではない。それは分かっている。でもやらずにはいられなかった。
◇
健一は最後の配送先に着いた。
店員が出てきて、やはり無言で頷く。健一は番重を運び、商品を陳列する。
サンドイッチの列を作る。
ツナ、たまご、ハム。それぞれを賞味期限順に並べ、向きを揃える。健一の手は震えていなかった。疲れているはずなのに、この瞬間だけは手が安定している。
最後の一個を置いた。
健一はその列を見下ろした。完璧な列。誰にも気づかれない、完璧な列。
これを見て「整っている」と感じる客がいるだろうか。本当に? 誰もそんなこと気にしていないのではないか。ただ手前から取って、レジに持っていくだけ。向きなど見ていない。
自己満足だ。
健一は目を閉じた。分かっている。でもそれを認めてしまったら、自分に何が残る。
店を出ると、空が白み始めていた。
健一は車に戻り、シートに身を沈めた。腰が、限界だった。鈍い痛みが背骨を這い上がり、肩甲骨の間で止まっている。目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
スマホが鳴った。
配送元からのメッセージだった。画面を開くと、短い文章が表示される。
『本日分、店舗からクレームあり。以後気をつけるように』
健一は画面を見つめた。
クレーム。どの店舗だろう。何が悪かったのだろう。
何を言っても言い訳になる。クレームがあったという事実だけが残る。
健一はスマホを膝の上に落とした。シートに頭を預けて、天井を見る。車内は静かだった。外ではもう、鳥の声が聞こえ始めている。
何をやっているのだろう。
こんな深夜に走り回って、腰を壊して、それでクレームを受けて。何のために。誰のために。
誰も見ていないのに。
疲れていた。体も、心も。
気を紛らわそうと、何気なくSNSを見た。
タイムラインに、一つの動画が流れてきた。
手水鉢に生けられた、曲がったチューリップ。茎は不自然に折れ曲がっているのに、花はまっすぐ上を向いている。水の中で、ゆらりと揺れている。
健一はその動画に目を奪われた。
曲がっているが、まっすぐ上を見つめている花。なぜ、こんなにも美しく見えるのだろう。
健一の視界が滲んだ。
動画を何度も見返した。画面の中で、花は静かに揺れている。
◇
遥は目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。窓の外はもう明るい。朝の七時を過ぎている。
スマホを見ると、投稿した動画に百件以上の「いいね」がついていた。コメントもいくつか届いている。
「美しい」「癒された」「ありがとう」
短い言葉ばかりだった。でも遥の胸に、何かが灯る。誰かに届いている。それは確かだった。
遥は立ち上がって、窓を開けた。
雨上がりの空気が流れ込んでくる。冷たくて、少し湿っている。それでも清々しかった。
遥は部屋を出て、朝食を買いに近所のコンビニへ向かった。店内に入ると、陳列棚が目に入る。サンドイッチが、きれいに並んでいた。
遥は足を止めた。
ラベルの向きが揃っている。その配置には意図があった。誰かが、考えて並べている。
遥はツナサンドを一つ手に取った。
この列を作った人は、今どこにいるのだろう。
遥はサンドイッチをレジに持っていった。
◇
健一は家に戻り、テーブルに座っていた。
帰りにコンビニで買ったパンを手に取った。
口に運ぶと、小麦の味がした。誰かが作り、誰かが運び、誰かが食べる。
その循環の中に、自分もいる。
健一は窓の外を見た。朝日が差し込んでいる。国道をトラックが走っていく。また誰かが、何かを運んでいる。
クレームのことは、まだ頭に残っていた。消えてはいない。でも、それだけではなかった。
あの花を見た。
曲がった花が誰かに生けられて、誰かに届いた。自分の並べたサンドイッチも、そうであってほしい。誰かの目に触れて、誰かの手に取られて。
健一は深く息を吸った。
世界は動いている。
健一もその一部だった。
◇
遥は部屋に戻り、サンドイッチを開けた。
ツナの匂いがした。パンは柔らかく、具材がたっぷり入っている。遥はそれを口に運ぶ。
美味しかった。
食べ慣れたコンビニのサンドイッチなのに、今日はなぜか特別に感じられる。
遥は窓辺の小さな植物に水をやった。
葉が少し伸びている。この植物も、生きている。遥も、生きている。
スマホを開いて、動画を確認した。手水鉢の花は、今頃どうしているだろう。
遥は窓の外を見た。空は青く晴れている。どこかで、また誰かが働いている。
遥は深く息を吸った。
雨上がりの空気は、まだ少しだけ湿っていた。
棚と花 三角海域 @sankakukaiiki
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