第3話 怠け者、連絡先を交換する。
「このように、因数分解の際、たすき掛けを用いると…………」
数学の授業だった。
高校が始まって間もないからだろう。ほとんどの生徒が、熱心に耳を傾け、ノートを取っている。
そんな中、
理由は単純明快。
ノートを取るのが、面倒だからだ。
わざわざシャーペンを手に、黒板や教師の発言内容をメモすることは煩わしい。どうせメモをしたところで、後から見返すとは思えない。そんな難儀なことをするくらいなら、授業中に全部理解してしまった方が、楽だ。
そういう心積もりだった。
勿論、提出が必要だというのであれば、その限りではない。さすがの沙樹でも重い腰を上げる。しかし、数学はそうでは無い。
よって、ノートは取らず、ただ聞くだけ。
幸い、沙樹は要領が良かった。一度見聞きしたことは、ある程度覚えられる。当然、集中しているときという条件はあるが、中学時代はそれで乗り切ってきた。
最小限の労力で、最低限の結果を得る。
怠け者の沙樹が選択した、生存戦略とも言える。
授業の終了を告げる、チャイムが鳴る。昼休みになった。
生徒は続々と席を離れ、友人と合流して、お手洗いに向かったり、購買へ足を向けたりしている。
入学式から一週間近く、経過した。既に、ある程度の人間関係が築かれていて、早くもグループが成立しかけている様子だった。
当の沙樹はというと、変わりない。
友人がいなければ、未だに、まともな会話を交わした人間すらいない。そういう状況だった。
なので、カバンから取り出したお弁当を、一人空しく頬張っていく。
お弁当は母が作ってくれる。弁当を用意しなければ、沙樹が昼食を省いてしまう、それを警戒しての判断だった。我が母ながら、自身のことをよく分かっている。沙樹は感慨にふけった。
冷凍食品のおかずを、口に運んでいく。
「ねえ」
時間経過により、食品の数々は冷めている。能力を使う案を模索する。
「あのー」
モノは擦れば熱くなる。これで、箸か何かで摩擦を起こせば、温度が上昇するはずだ。
「聞こえてるー?」
お弁当に手を掛けようとしたときだった。突然、眼前に人の手が現れる。
沙樹はゆっくり顔を上げることにした。
女の子がいた。
悪く言えば普通、良く言えば手本のような女子高生だった。黒髪をペンギンのストラップがついたゴムで一つ結びにしている。手にはお弁当を抱えていた。
「えっと………………」
多分、クラスメイトだ。如何せん、名前が思い出せない。沙樹が反応に困っていると。
「
そう、尋ねられた。向こうは、沙樹の名前を覚えているようだった。沙樹はいたたまれない気持ちになった。
とはいえ、断る理由は無い。むしろ断った方が、後々の学校生活に響き、面倒な事になるかもしれない。
「……いいよ」
傍からの見え方はともかく、快諾した。
「ありがとう!」
女子生徒は笑顔で応えると、自分の椅子を持ってくる。沙樹と、直角に交差するような位置に座る。
「えっと……私の名前って分かる?」
「…………すみません」
先んじて、謝罪することにした。
「あはは、いいよいいよ。私だって、覚えられていない人いっぱいいるし」
優しくて助かった。
中学時代、半年ほど経過しても、クラスメイト全員の名前を覚えておらず、白い目を向けられたことは記憶に新しい。それ自体は、何とも思わなかったが、その後、沙樹を憐れんだ生徒達がやたらと絡んできて、大変な目に遭った。
「私は
沙樹はコクリと頷く。
なぜ沙樹に声を掛けてきたのか、皆目見当はつかないが、人当たりが良い人であることは確かだった。
海荷もお弁当に手をつけていく。可愛らしいお弁当だな、と思った。
「ねえ、いつも不思議に思ってたんだけど、鉤花さんって板書とってないよね。なんでなの?」
見られていたようだった。一番後ろの席である沙樹を、何故見ていたのかは分からないが、沙樹はそこまで気にしなかった。
「面倒だから」
ただシンプルに、素直に答えた。
「え…………」
海荷は面食らったような表情だった。
もしかすると、引かれたのかもしれない。
昔からそうだった。沙樹はコミュニケーションにおいて、深く考えない。思ったことを言う。どんな内容を振るべきか、何を言うべきか、わざわざ思考することが億劫だからだ。
「ノートを取るのが面倒だから、取ってないってこと?」
「うん」
「テスト前の復習ってどうするの?」
「復習しない」
「おお……」
何とも言えない感嘆表現だった。
「もしかして、鉤花さんって天才タイプ?」
「全然。成績はいつも平均くらいだった」
「マジ……?」
沙樹は首肯する。
「じゃ、じゃあ、鉤花さんって何が好きなの?」
海荷が話題を切り替えた。
「…………テレビとか」
「へえ。何を見るの?」
「うーん、アニメとか……」
「おお、そうなんだ。私も好きなんだ!」
沙樹は、珍しく身構えた。
これもまた中学時代の話。沙樹と同じくアニメが好きで、しばらく仲良くしていた人物がいた。
ただ、上手くいかなかった。その人物は、ただ見るだけでなく、考察や批評を主とする鑑賞スタイルだった。そのため、何も考えずに楽しむ鑑賞スタイルの沙樹とは馬が合わなかった。
沙樹としては、会話する分には良かったが、向こうはそうでも無かったらしい。自然と、距離が離れていったという過去がある。
「あ、じゃあ、漫画とかも読むの?」
「漫画は……読まない」
「あー、読まないのか……」
海荷は肩を落とした。アニメより漫画の方が好きという層は一定数いる。海荷もその一人なのかもしれない。
「…………もしかして、読まない理由って、面倒だから?」
「うん」
海荷は沙樹の行動原理を、理解したらしかった。
「漫画は紙をめくるのが面倒、ってことだよね?」
「そうだよ」
「………………」
海荷は、押し黙った。
もしかすると、海荷との関係は、この数分間で終わったのかもしれない。元来、沙樹の怠け者ぶりは、大概の人間と反りが合わない。高校でも相変わらずだった。
人間関係はやはり難しい、沙樹がそう思っていると。
「ねえ、鉤花さん」
「うん?」
「私と………………連絡先交換しない?」
緊張した面持ちの海荷に、そう問われる。
沙樹にとっては、想定外だった。てっきり、愛想笑いの海荷に、解散の言葉を告げられるものと思っていた。
確かに、人間関係は面倒だ。気を遣ったり、気を遣われたり。
ただ、沙樹は欲していないわけでもない。
なので。
「いいよ」
「いいの⁈」
こうして、海荷と連絡先を交換した。海荷はなぜか、心底嬉しそうな表情を浮かべていた。
沙樹としても、高校に入学して、初めてのことだったため、良かったと言える。
そして、これは数分後の話。
「……それどうなってるの⁈」
海荷が向けている視線の先を見る。
それは、沙樹のお弁当だった。
「あ…………」
「湯気、出てるよね……?」
能力を解除していなかったため、少しの摩擦で温度が上昇するようになっている。何かの拍子で、湯気が立つほどの温度になったのかもしれない。
「どゆこと……⁈」
お弁当は冷めるのが普通だ。能力のことが露見してしまうかもしれない。
「…………これは、高機能なお弁当なんだよ」
沙樹は適当に誤魔化して、事なきを得た。
怠け者、剃刀で削ぐ。 占路玄 @kurokinoko
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