色彩の棺――偽りの楽園が剥がれ落ちたとき、君に青い空を

いぬがみとうま

色彩の棺

 


 一


 空の色は、いつだって完璧な「パステル・シアン」の階調を保っていた。


 僕、カケルが子供の頃に見ていた世界は、全能の造物主が最高級の筆を滑らせて描いた楽園そのものだった。網膜にインプラントされた高度な拡張現実技術「ヴィジョネア」は、僕の視界からあらゆる「不純物」を自動的に排除していた。


 ひび割れたアスファルトには電子の向日葵が揺れ、錆びついた鉄柵は磨き抜かれた象牙のように白く輝く。街を走る無人タクシーは、空想上の生き物を模した愛らしいフォルムに上書きされ、人々の着ている安物の化学繊維は、光の加減で色を変えるシルクのような質感に変換されていた。


「カケル、おじいちゃんに感謝しなさいね。あの方がいなければ、私たちはこの『彩度』を維持できないのだから」


 母さんは、家の奥にある「奥座敷」に向かって、敬虔な信者のように手を合わせるのが日課だった。

 そこには、僕が物心ついた時から、無数の生体チューブと光ファイバーの束に繋がれた「肉塊」が鎮座していた。祖父だというその存在は、「いしずえ」と呼ばれる生体サーバー契約を結んでいた。


 高度な並列演算能力を必要とするこの管理社会において、人間の脳はシリコンチップを遥かに凌駕する効率的なウェットウェアとなる。祖父は自らの意識を演算の海に溶かし、社会のインフラを支える歯車となる代わりに、我が家に莫大な報酬をもたらしていた。その報酬が、僕たちのヴィジョネア・アカウントの「スコア」を底上げし、視界の解像度を保証していた。


 僕は、その奥座敷という空間が、理屈抜きに嫌いだった。

 祖父の部屋にだけは、いつも奇妙な「ノイズ」が走っていたからだ。黄金色に輝く完璧な世界が、その部屋の境界線でだけは、不気味な灰色の砂嵐に侵食されている。


 一度だけ、幼い好奇心に負けてポッドの縁に指をかけたことがある。

 その瞬間、網膜の奥で強烈なエラー音が鳴り響き、視界が激しく乱れた。一瞬だけフィルターが剥がれ落ち、僕は「見てはいけないもの」を見てしまった。

 鼻をつくような、強烈な腐敗臭。ドブの泥と焦げたゴムを混ぜ合わせ、煮詰めたような、吐き気をもよおす臭いだ。視界の隅に映ったのは、ヌルヌルとした黒い粘液に塗れた、不気味な管の山だった。


「……カケル……そこは……赤すぎる……。もう少し……淡い、レンゲの……色を」


 ポッドの中から、祖父の乾いた唇が微かに動くのが見えた。

 祖父は僕を見ているのではなかった。何もない虚空を見つめ、何千キロ、何万キロ先にある仮想世界のデータのバグを潰すように、意味不明な調整コードを呟き続けていた。

 僕は生理的な嫌悪感とともに、その場から逃げ出した。

 僕にとって祖父は、家族を養うための「賢者の石」であり、同時に、世界の美しさを汚す「不気味」そのものだった。



 二


 大人になるにつれ、世界から少しずつ輝きが失われていった。

 それは僕自身の社会貢献度スコアが、期待されたほど伸びなかったせいだ。


 ヴィジョネア・システムは、個人の能力と貢献を数値化し、それに応じて「見ることのできる世界の質」を決定する。最高ランクの「プラチナ・ヴィジョネア」を保持する特権階級は、空気の粒子一つ一つに光の粒子が宿るような神話的世界を生きている。対して、僕のような低スコアの労働者が直面するのは、テクスチャが剥がれ落ち、至る所にポリゴンの隙間が見える「ローエンドな現実」だった。


 僕はヴィジョネアの保守運用を行う下請け会社「システム・ガーディアン」で、日々流れてくる膨大なバグ報告を処理するデバッガーとして働いていた。

 仕事の内容は、システムの裏側に潜り、フィルターの継ぎ目を修復することだ。

 作業用端末を通して見る世界の裏側は、眩暈がするほど冷徹だった。


「カケル、このスラム街のレンダリング・エラーを見てみろ。もう修復する予算が降りていない」


 先輩のベテラン・プログラマー、サトウが、蒸気煙草の代わりに電子スティックを噛みながら画面を指差した。

 画面に映っていたのは、スコアが最底辺まで落ち込んだ貧困層が住む居住区の映像だった。そこには向日葵も象牙の柵も存在しない。崩れかけたコンクリートの残骸、錆びた鉄パイプ、泥を啜って生きる人々の姿が、補正なしの無慈悲な解像度で描写されていた。


「これこそが現実、というわけですか?」

「現実かどうかなんて、誰にもわからんよ。俺たちが見ているのも、脳が電気信号として解釈した結果に過ぎない。だが、スコアが低い奴らにとって、世界はこういう『ゴミ溜め』として定義されている」


 サトウの言葉は、僕の胸を深く抉った。

 僕の住むエリアは、まだマシな部類だった。祖父という「礎」がもたらす一定のスコア補加があるおかげで、街並みの最低限の美しさは維持されていた。

 運命が暗転したのは、僕が二十代の後半に差し掛かった頃だ。

 両親が不慮の事故で他界し、祖父の管理責任がすべて僕の肩に転がり込んできた。


 追い打ちをかけるように、システムの維持コストが跳ね上がった。

 祖父の肉体はすでに限界を迎えており、脳の鮮度を保つための高価な延命剤や、老朽化したポッドのメンテナンス代が、生活を激しく圧迫し始めた。祖父が「礎」として社会にもたらす演算報酬よりも、彼を「生体サーバー」として稼働させ続けるためのコストの方が、上回り始めたのだ。


「……何のために、この肉塊を飼い続けているんだ?」


 夜、薄暗い奥座敷で祖父の不規則な心拍音を聞きながら、僕は呪いのような独り言を吐いた。

 当時付き合っていた恋人との結婚も、僕のスコアの低さと、この「重荷」のせいで立ち消えようとしていた。祖父をシステムからデタッチ解除し、安楽死させれば、多額の生命保険金が手に入る。ポッドを売却すれば、自分自身のヴィジョネア・ランクを一段階上げるアップグレード権を購入する資金にもなる。

 この「動かない不気味」さえ消えれば、僕の人生には再び鮮やかな光が戻るはずだった。



 三


 三十代の終わり、僕には娘のヒカリを授かった。

 それは、灰色の生活の中で見つけた、唯一の「本物の奇跡」に思えた。

 ヒカリを抱き上げた時、僕のヴィジョネア越しに見る彼女の肌は、絹のように滑らかで、瞳は水晶のように澄んでいた。この子だけは、僕のような醜い現実を見せずに育てたい。何としてでもスコアを上げ、極彩色の世界を約束してやりたいと、僕は心から願った。


 その願いは、残酷な現実によって打ち砕かれる。

 ヒカリが三歳になった頃、彼女の視線がどこか一点を彷徨っていることに気づいた。

 病院での診断結果は、僕の精神を根底から破壊するものだった。


「お父さん、落ち着いて聞いてください。ヒカリちゃんには先天的な神経伝達系の欠陥があります」


 医師の言葉は、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。

「最新のヴィジョネア・インプラントでも、彼女の脳内で正常な信号変換を行うことができません。言い換えれば、彼女にはシステムによる『フィルタリング』が機能しない。この子は一生、剥き出しの『現実』を見て生きることになります」


 全身の血が引いていくのを感じた。

「現実を、生のまま見る……? そんなことが、人間に耐えられるはずがない。この汚染された世界を、彼女の小さな脳がそのまま受け止めるというのですか?」


「方法が一つだけあります。脳の欠損領域をバイパスし、外部から直接高解像度データを流し込む、超高性能なカスタム・インプラント手術です。ただし、これは正規の保険適応外。費用は……」


 提示された金額は、僕の年収の十倍を軽く超えていた。

 借金をしようにも、低スコアの僕に融資してくれる銀行など存在しない。

 絶望の淵に立たされた僕の脳裏に、あの「奥座敷」の光景が浮かんだ。

 ポッドの中で静かに脈打つ、あの老人。

 僕たちの家族を縛り付け、僕の人生の彩度を奪い続けてきた、あの忌まわしい肉塊。


 僕は、闇業者の連絡先に指をかけた。

 祖父の「礎」としての契約を、不法に強制解除し、その死をもって娘の光を買い戻す。

 それは、僕に残された最後の選択肢だった。



 四


「いいんですか、旦那。これ、バレたらあんたのスコアはゼロどころか、再教育施設行きだ」


 部屋に招き入れた闇業者の男は、油染みた作業服の袖を捲りながら、不敵な笑みを浮かべた。

 奥座敷のノイズは、かつてないほど激しくなっていた。祖父のポッドから漏れ出す砂嵐が、僕の視界をチリチリと焼き、不快な臭いが部屋中に充満している。


「構わない。早くやってくれ」

「わかったよ。じゃあ、生命維持ラインを切るぜ。礎のリンク設定が解除されるから、あんたの視界もしばらく不安定になるだろうが、我慢しな」


 業者が、祖父の頸椎に刺さっていた太い光ファイバーを引き抜いた。

 プシュッ、という、重苦しい空気が抜ける音。

 モニターに映っていた祖父の脆弱な脳波が、一瞬だけ激しく跳ね上がり、次の瞬間、緩やかに平坦な一本の線へと変わった。

 心拍数ゼロ。


 その瞬間、僕の耳の奥で、ガラスが砕けるような鋭い音が響いた。

 長年、自分を縛り付けていた重荷が消え去り、ようやく自由になれたのだという、歪んだ高揚感が込み上げてきた。

 祖父は死んだ。これでヒカリは救われる。

 彼女の瞳に、美しい花々を見せてやることができる。


「……お父さん? 暗いよ。真っ暗だよ」


 背後から、ヒカリの震える声がした。

「大丈夫だよ、ヒカリ。今すぐ、もっと明るい世界を――」


 僕が娘の方を振り返ろうとした、その時だった。


 視界が、裂けた。


 いや、正確には「剥がれ落ちた」のだ。

 完璧なパステル・シアンの空が、古い壁紙が熱でめくれ上がるように、端から黒く変色し、剥落していく。

 その下から現れたのは、重油をぶちまけたような、粘つくような漆黒の雲の渦だった。太陽の光など何処にもない。空は絶望的な暗緑色に染まり、空中の汚染物質が奇妙な燐光を放っている。


「なんだ、これは……!? システムの故障か? 業者のミスか!」


 叫びながら部屋を見渡すと、そこにはかつての清潔なマンションの姿はなかった。

 壁紙は剥がれ落ち、湿り気を帯びたコンクリートの肌が、無数のカビの斑点を浮かべていた。家具だと思っていたものは、不衛生なプラスチックの箱を積み上げただけの代物で、豪華なカーペットの下からは、油塗れの冷たい鉄板が顔を出していた。


 窓の外に広がるはずだった「向日葵の咲く公園」は、何処にもなかった。

 そこにあったのは、空高く積み上げられた有毒な産業廃棄物の山と、その隙間に巣食う巨大なネズミのような変異生物の群れだった。遠くに見える街のシルエットは、核の炎に焼かれたあとのように歪み、酸性雨に晒されてドロドロに溶け出していた。


「あ、ああ……あ……」


 喉の奥から、言葉にならない呻きが漏れる。

 僕は、足元で泣いているヒカリを抱き上げようとして、自分の手を見た。

 白く清潔だったはずの手は、泥と脂にまみれ、爪の間には黒い汚れが詰まっている。皮膚はひび割れ、栄養失調の予兆である白い斑点が浮き出ている。


 そして、僕が抱き上げたヒカリ。

 彼女は、僕が愛した「天使のような少女」ではなかった。

 不衛生な環境のせいで全身に爛れた湿疹が広がり、ガリガリに痩せ細った、見る影もない子供だった。彼女の濁った瞳は、この地獄のような現実を、ありのままに映し出していた。


「……お父さん……怖い。何も見えない。怖いよ……」


 僕は理解した。

 この世界は、とうの昔に終わっていたのだ。

 人間が、ヴィジョネアという名の「色彩の棺」に閉じこもらなければ生きていけないほど、地球という惑星は死に絶えていたのだ。

 僕のような低スコアの人間が、なぜ今まで、中流階級の「美しい嘘」を見ていられたのか。


 僕は、床に転がった祖父の死体を見た。

 ファイバーを抜かれ、干からびた果実のように縮んだ、小さな老人。

 その時、僕の網膜の隅に、システムが完全にシャットダウンする直前の、最後の一行のログが表示された。


【個別ストリーミング・プロセス:完了。送信元:USER_ID_ISHIZUE_01(Grandpa)】

【メッセージ:カケル、最後のリマスタリングだ。この空を、気に入ってくれるといいんだが】


 膝から崩れ落ちた。

 祖父は、社会を支えるための汎用サーバーなどではなかったのだ。

 彼は、自分の脳の演算能力のほぼすべてを、たった一人の孫――僕一人に見せる「完璧な世界」を創り上げるためだけに捧げていた。


 僕が見ていたあの黄金の空も、象牙の柵も、幸せな家族の食卓も。

 すべては、祖父がポッドの中の激痛に耐えながら、四六時中、一秒の休みもなく描き続けていた「夢」だった。

 幼い頃に聞いたあの意味不明な言葉。

「赤すぎる」「淡いレンゲの色に」。

 あれはボケた老人の戯言ではなく、僕に届く映像の色彩を、僕の好みに合わせて微調整し続けていた、愛のデバッグだったのだ。


 彼は、この腐り果てた地球の中で、僕だけを楽園に住まわせるために、自分の魂を削り続けていた。

 その「礎」を、僕は自らの手で引き抜いたのだ。




 五


「お父さん……暗いよ。何も見えないよ。息が苦しいよ……」


 ヒカリの掠れた声が、灰色の部屋に響く。

 ヴィジョネアという名の嘘を失った彼女にとって、この剥き出しの現実は、呼吸をすることさえ苦痛な暴力でしかなかった。

 彼女の脳は、このあまりに醜い真実を処理しきれず、自己崩壊の危機に瀕している。


 僕が祖父から受け取った、あの眩いばかりの愛は、僕自身の傲慢によって潰えた。

 だが、まだ、救える命がある。


 僕は、まだ微かな温かみが残る祖父の死体を、床にそっと横たえた。

 それから、茫然と立ち尽くしていた闇業者の胸ぐらを、力任せに掴み上げた。


「おい、このポッドを運び出すのは中止だ。今すぐ、このシステムを再起動しろ」

「……旦那、何を言ってる。礎はもう死んだんだ。もう代わりのサーバーなんて……」

「僕だ」


 僕は自分の胸を指差した。

「脳の直結インターフェースを、僕の頸椎に繋げ。リンク先は、娘のヒカリだ。今すぐに」


 業者の男の顔が、驚愕に歪んだ。

「正気か!? 礎になるってことが、どういうことか分かっているのか? あんたの意識は、サーバーの海に放り込まれ、永劫に続く演算の波に磨り潰されるんだぞ。二度と、自分の足で歩くことも、娘を抱きしめることも、言葉を交わすこともできなくなるんだ!」


「分かっている。いいから、やれ」


 僕は、かつて祖父が眠っていた、あの「棺」の中に入った。

 狭く、冷たく、そしてドブのような臭いに満ちた場所。

 けれど、頸椎に鋭い端子が差し込まれた瞬間、それらすべての不快感は、光の洪水の中に消え去った。


 脳内に、かつてないほどの感覚が流れ込んでくる。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚――。

 それら五感のすべてが「データ」として解体され、再構築されていく感覚。

 僕自身の自我の境界線が溶け出し、娘の意識とダイレクトに繋がる。


 僕は、僕の脳のすべてを使って、世界を想像し始めた。


 空は、あのパステル・シアンじゃない。

 もっと深くて、どこまでも吸い込まれるような、僕が古い資料で見た「本物の青」がいい。

 雲は、綿菓子のように白く、柔らかく。

 公園には向日葵じゃない。ヒカリの名前の由来になった、光り輝くような白い花を咲かせよう。

 冬には粉雪を、春には柔らかな風を。

 僕の喉はもう動かないけれど、映像の中で、僕は彼女を何度でも抱きしめよう。


 意識が、白濁していく。

 カケルという一人の男の輪郭が消え、娘の人生という物語を支えるための「環境」へと変わっていく。

 遠のく意識の淵で、僕はモニター越しにヒカリの姿を捉えた。


 彼女の濁っていた瞳に、ふっと、驚きと喜びの光が宿った。

 彼女は、何もないカビだらけの壁に向かって、震える小さな手を伸ばした。

 その顔に、この地獄のような世界では決して見られないはずの、天使のような微笑みが浮かぶ。


「わあ……きれい……。お父さん、見て、お花がいっぱいだよ! 空も、とっても青いよ!」


 僕は声にならない声で、穏やかに笑った。

 動かない体。暗い奥座敷。死よりも孤独な演算の海。

 けれど僕は今、娘の瞳の中で、誰よりも自由で、誰よりも美しい世界を旅している。


 これが、僕ら一族が選んだ、愛の形だ。

 僕は「色彩の棺」の中で、娘が大人になり、彼女自身が「礎」を必要としなくなるその日まで、世界を創り続ける。


 かつて、僕のために、祖父がそうしてくれたように。


 暗闇の中で、僕の意識は、どこまでも鮮やかな色彩の中に溶けていった。


(了)

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